私の西安日記(10) 西安の名物、辛いけど美味しい油溌麺

 
 麺屋陝西省というより西安の名物として知られているのが油溌麺です。北京にも西単の図書大厦の裏に陝西麺館という店があって、実は北京で仕事をしていたころ贔屓のその店へ行くたびに私は油溌麺を食べていたのです。今回初めて西安を訪れるに当たり一番気になったのは、本場の油溌麺ってどんなものだろうということでした。



本場の油溌麺は幅4−5センチもある広い麺を使います。(北京の陝西麺館のはここまで幅が広くなく、油溌麺22センチぐらいでした。)手延べの麺を茹でてお湯を切り、それに青菜ともやしを乗せ、唐辛子の砕いたものと青ネギをのせて熱い油(普通は落花生油、最近はオリーブ油を使う店もあるという)と酢をかけただけの単純な麺なのです。(ちなみに中国の酢は黒いのが普通です。日本人はよく醤油と間違えるようです。)単純とはいえ、この唐辛子やネギ、それにニンニクなどのバランス、そして何より麺の出来具合で店によって味が違うので結構楽しめる麺です。

 西安で連れて行ってもらった店は油溌麺しか扱っていないという専門店でした。下の写真のようなとてつもなく大きな丼で麺を出す店で、当然私は「小」を頼みました。テーブルには生のニンニクが置いてあり、麺が来るまでの間、これに唐辛子味噌をつけて齧るのだそうです。北京ではニンニク臭いのは田舎者と相場が決まってますから、私は北京の淑女の矜持としてニンニクは食べませんでした。

 さてこれが出てきた油溌麺油溌麺1です。直径が40センチ近くある丼の中で具と麺をかき混ぜて食べるのです。冬になるともっと唐辛子の量を増やすのだと地元の人は言っていました。油と酢と青菜の味が混ざり合うのは同じですが、北京で食べていたものより味がまろやかです。お酢のせいかもしれません。この店では青菜の他にセロリとトマト、玉ねぎなども入っていました。量が少なく見えるかも知れませんが、カップラーメンなら1杯半分ぐらいの分量はあります。

 西安名物ではビャンビャン麺というのもあります。こちらも同じような幅広の麺を使いますが、かけ麺であり麺がお汁に浸かっているところが違います。西安は西域の入り口であり回教徒も多いので、ビャンビャン麺には羊肉や野菜がたくさん乗ったものが多く、お値段も油溌麺の倍ぐらいします。今は物価も上がって、油溌麺が大体20元、ビャンビャン麺は35−40元ぐらいもします。北京オリンピック前には西単の麺屋では油溌麺がたしか8元だったと記憶していますから、ずいぶんなインフレです。


 一方、日本でも時折見かける刀削麺というのは油溌麺とは全く違った麺です。この二つをごっちゃにしてる人がいますが、刀削麺と油溌麺はそもそも出自も内容も違うのです。油溌麺の麺が生地をのばして作るのに対して、刀削麺は文字通りに生地を包丁で切って作ります。それにそもそも刀削麺は陝西省じゃなくて山西省の食べ物ですから、油溌麺と刀削麺の両方を売り物にしてる日本の店なんかは、北海道・瀬戸内料理専門っていうみたいなものですから、味を疑ってかかった方がいいかもしれませんね。
 

私の西安日記(9) 咸陽宮(その3) 咸陽宮と阿房宮

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 阿房宮については前回も触れたが、秦の宮殿の中で咸陽宮より広く名が知られている。平家物語にも「その中に阿房殿とて始皇の常は行幸成つて政道行はせ給ふ殿あり。」(平家物語巻第五「咸陽宮」)と書かれているし、青森県南部の特産である食用の菊の花は「阿房宮」と名付けられている。東北地方では大ぶりな花びらを野菜の一種として食べるのだそうだ。

ポワロ和訳 またアガサ・クリスティの未定稿として見つかったエルキュール・ポワロの物語は、早川書房の翻訳本では「エルキュール・ポワロとグリーンショアの阿房宮」という題名になっている。(原題はHercule Poirot and the Greenshore Folly」)Follyと言う言葉は研究社の英和辞典によると、「大金をかけたばかげた大建築(計画)」(研究社 新英和中辞典)という意味だが、日本では「阿房宮」がとてつもない規模の大建築の意味にうまく当てはまると思われているのだろう。しかし阿房宮は実在したのだろうか。

 
 史記(秦始皇本記)には、広大な阿房宮の中で先ず建設工事が行われた前殿の大きさについての記述だけしかない。
「先作前殿阿房,東西五百步,南北五十丈,上可以坐萬人,下可以建五丈旗。」
 
まず阿房の地に「前殿」を作ったが、東西500歩(この頃の1歩は1.35メートルなので、約675メートル)、南北は50丈(丈は1.8メートルで、約90メートル)であり、殿上には1万人が座ることができ、殿下に5丈(9メートル)の旗を立てることができたと言うのだ。

 これらは建物の土台の長さだろうが、それにしても咸陽宮の60x45メートルに対して、阿房宮は前殿だけで675x90メートルととてつもなく大きいことがわかる。最近の発掘では、その基台となる土盛りの部分は、東西1270メートル、南北426メートルとさらに大きいことがわかっている。

 
6日付の中国各紙によると、秦の始皇帝が造営した大宮殿「阿房宮」(中国陝西省西安市郊外)は、定説と異なって、楚の武将、項羽に焼き払われてはいないことが、中国社会科学院考古研究所と西安市文物保護考古研究所が共同で実施した発掘調査で明らかになった。約1年間にわたって、20万平方メートル以上を調べたが、大量の灰や焼けた土など火災があった痕跡は発見されなかったという。阿房宮は紀元前212年、始皇帝が渭河の南に建造を開始した大宮殿。秦代末期に項羽が侵入し、3か月炎上したといわれ、これまで度々歴史小説の題材になってきたが、項羽によって焼失した事実はなかったことになる。新華社電によると、今回の調査では、始皇帝在位中に完成したとされる阿房宮の前殿部分の基本構造や範囲など輪郭が初めて判明した。前殿の土台は東西1270メートル、南北426メートルで、総面積は54万1020平方メートル。専門家は「今回の重大発見は中国史上最大規模の建築群の1つ、阿房宮の謎を解く上で重要な資料を提供してくれた」と意義を強調している。2003/12/0714:26読売新聞
 
 地図 
 地図でみると阿房宮は咸陽宮とは渭水を隔てている。今の渭水の10キロほど南側に位置し現在の西安市西端にある。渭水にかかっていた秦時代の
橋の発掘調査によると、その頃は渭水が今より3キロから8キロほど南を流れていたことがわかっているが、それでも阿房宮は咸陽とは川の反対側にあった。司馬遷は前に引用した次の部分に以下のように書いてある。

「為復道,自阿房渡渭,属之咸陽。阿房宮未成;成,欲更択令名名之。作宮阿房,故天下謂之阿房宮。隱宮徒刑者七十餘萬人,乃分作阿房宮,或作驪山。」(史記:秦始皇本紀)

(阿房宮からは復道(廊下)で渭水を渡って咸陽まで行けた。阿房宮は完成しなかった。完成したら名を選んでつけようと思っていたのだが、阿房の地にあったために天下の人が阿房宮と呼ぶようになったのである。当時は宮刑や徒刑に処せられた者が70万人以上いたが、これを分けて阿房宮と驪山陵を作らせた。)

 阿房宮建設の開始は紀元前212年であり、その2年後の210年7月に始皇帝は亡くなった。始皇帝の死に伴い始皇帝の墓である驪山陵の完成がまず必要になり、70万の労働力はほぼすべてそちらへ動員された。(この驪山陵が兵馬俑で有名なところである)その翌年(209年)4月に二世皇帝(胡亥)は咸陽に戻り「先帝為咸陽朝廷小、故営阿房宮為室堂。未就会上崩,罷其作者復土驪山。驪山事大畢、今釈阿房宮弗就,則是章先帝挙事過也。先帝は咸陽宮が小さいとして阿房宮を造営した。しかし室堂を作り始めてまだ完成しないうちに崩ぜられたため驪山陵を作った。驪山陵が出来上がった今は阿房宮の造営を再開しないと先帝のやったことが過ちだったことになってしまう。史記:秦始皇本紀)と阿房宮建設を再開しようとした。

 しかしその年の7月にはもう陳勝・呉広の乱が始まった。二世皇帝が実際に建設を続ける余裕はほとんどなかっただろう。だからいくら合計で数十万人の作業員がいても、途中で驪山陵建設に人を取られ、結局は司馬遷が大きさを記した前殿ですら土台しか完成しなかったのではないだろうか。つまり阿房宮は前殿の土台以外には何も建設されなかったのではないだろうか。

 私がそう思う理由はいくつかある。まず史記の記述をどう読むかと言う点である。「先作前殿阿房,東西五百步,南北五十丈,上可以坐萬人,下可以建五丈旗。」というのを、従来は出来上がった前殿の大きさがこんなに大きかったのだと解釈してきたが、古代の中国語は極めて簡潔なので、「(建物ができたら)殿上は1万人が座れるぐらいの広さ、殿下には5丈の旗を立てられるぐらいのサイズになる計画だった」とこの文章を読んでもおかしくない。

 また「為復道,自阿房渡渭,属之咸陽。阿房宮未成」も、「阿房宮からは復道(廊下)で渭水を渡って咸陽まで行けるようにする計画だったのだが、阿房宮は結局完成しなかった」とも読める。

基台 二番目の理由は、上に挙げた建設の日程である。咸陽宮が100年近くもかかって造営されたのに阿房宮は建設開始から数年しか経っておらず、しかも驪山に作業員を取られてしまっているので、前殿ですら建物ができ上っていたとは考えにくい。また最近の発掘では、前殿の西、北、東の三方には周囲の壁が築かれているが南側には壁がなかったことがわかっている。建設資材を搬入するため南側の壁は宮殿の完成後に作ることにし、建設中は築かなかったのだろうと考古学者は言っている。つまり阿房宮前殿は建設中だったと理解できるのだ。

(写真は阿房宮の土台として突き固めた土)

 
 三番目の理由は、阿房宮の建物がある程度まででき上っていたとしたら、いくら渭水の南にあったところで、項羽が咸陽を焼き払った時にこの最大規模の宮殿に火を掛けなかったわけがないからである。先に挙げた記事にもある通り、発掘調査の結果では火事になった痕跡がないことはわかっている。

 四番目の理由は、秦二世皇帝即位から10年後の漢王朝成立間もない時に、劉邦の大番頭である蕭何が未央宮をごく短期間に造ったことだ。劉邦はそれまで焼けなかった秦の興楽宮を改装して長楽宮として使っていたのだが、韓王信を討つため遠征に行き長安に帰ってみると未央宮ができていたというのだ。未央宮は秦の章台宮の跡地に造られたが章台宮は項羽に焼かれている。その焼け跡にこんな短期間で宮殿を完成させるのは、近くに大量の建設資材がなければ不可能なことだ。阿房宮から未央宮までは直線で6キロと極めて近い。建設されなかった阿房宮には木材や石など宮殿建設に必要な資材が山積みだったのではないかと私は思う。

 これらの理由から、ポワロの翻訳にまで使われた「阿房宮」という「建物」は結局はこの世に実在することなく、その建設用資材は漢の未央宮を短期間に仕上げるために流用されたと考える方がはるかに自然に思える。

 しかし同時に、Folly=「大金をかけたばかげた大建築(計画)」と言われようが、そんな壮麗な世界一の大宮殿が実際には建物部分の建設にまで至らなかったとことは残念に思う。

 二千年の間、さまざまに引用されてきた阿房宮は世界遺産には登録されていない。阿房宮のみならず秦から唐まで千年以上も都が置かれた咸陽・長安でユネスコの世界遺産に登録されているのは秦始皇帝陵(驪山陵)と兵馬俑だけだ。群馬県の富岡製糸工場みたいなシロモノが世界遺産だというなら、阿房宮や咸陽宮に始まり玄奘三蔵が経典をしまった大雁塔、楊貴妃が湯あみした華清池、歴代の皇帝陵などが重層的に集まっている西安の遺跡はもっともっと世界遺産に登録されていいのではないだろうか。ユネスコが賄賂の金額によって世界遺産への登録を決めるという噂はまんざらウソではなさそうな気もする。

私の西安日記(8) 咸陽宮(その2) 意外に小さい咸陽宮

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 秦では孝公、恵文王、昭王と名君が続き(前361年−前251年)、この100年余りの間に国力が急に伸びた。その理由の一つは孝公の時代に秦の西南に当たる広大な巴蜀(現在の四川省)を手に入れて農業生産力が飛躍的に伸びたためである。もう一つの理由は、この三代の君主がいずれも人の能力を見極めて使うのがうまかったためである。孝公は商鞅を重用した。商鞅は秦の法や制度を整備して繁栄の基礎を作った。もっとも、法の適用に厳しすぎたので、孝公が亡くなり子である恵文王が即位すると罪を問われ車裂きの刑に処せられたのだが。
恵文王の代になると王は稀代の策士、張儀を使い楚の名臣屈原と楚王を離間させるなど手練手管を使って各国を揺さぶり秦を覇者に押し上げた。その子の昭王は魏から逃げてきた范雎を宰相に据え、王族の政治力と軍事力を削ぎ王権を確固たるものにした。この三代の時代に起工し竣工し、後の秦帝国でも政治の中心となった宮殿が咸陽宮である。
 
土台 咸陽宮は孝公(在位:前361年−前338年)の代に建設が始まり昭王の時代に完成したと言われる。昭王の在位は前306年−前251年だから、宮殿全体の完成には半世紀以上を要したわけだ。咸陽宮は第一から第三まで三つの宮殿から成っていた。いずれも三階建てに見えるが、第1層は実は土を突き固めた土台であり、その上に第2層として実質的な1階部分が、その上にさらに土盛りした部分に実質的な2階部分が乗る構造になっていたらしい。宮殿の土台にあたる場所を最近切り開いで作った新しい道路の両側の法面には、突き固めた土がミルフィーユのように重なっているのがいまでも見て取れる。


 これが咸陽宮の復元見取咸陽宮断面図り図である。真ん中の溝を境に左が1号宮殿、右が2号宮殿である。1号宮殿(左半分)の土台のサイズは東西が60メートル、南北が45メートル、一層の土台の高さは6メートルだったという。土台の上に建つ宮殿の真ん中の最も高い部分の建物は、東西13.4メートル、南北12メートルというから意外に小さいものだ。いまの小学校の体育館は大体24メートルx34メートルが主流だから、その四分の一程度のサイズだったようだ。図の右下に縮尺があるので大体の見当がつくと思う。この見取り図から描いた想像図でもそれほどの大きさではない事がわかる。


想像図






 日本の平家物語には、なぜか咸陽宮という章がある。清盛による福原遷都の後の部分に唐突に挟まっているのだが、琵琶法師がこの辺りで遠い唐土の話を引き合いに出して知識をひけらかそうという目的で入れ込んだのだろう。平家物語の咸陽宮の章は史記の叙述の引用に近く、燕の太子丹が荊軻という刺客を送り込み秦王政(後の始皇帝)を殺そうとした部分の抜粋である。荊軻は始皇帝暗殺に失敗し太子丹もその国である燕も秦に滅ぼされた。この章の最後に一行だけ地の文があって、「されば今の頼朝もさこそはあらんずらめと式退申す人もあけるとかや」(だから今の頼朝も太子丹と同じことになるだろうとお世辞を言う人も
あったという)と書いてあるから、始皇帝を平清盛に、太子丹を頼朝に例えたのだろう。

 それはいいとしても、平家物語のこの部分に咸陽宮の大きさが以下のように記されている。
「咸陽宮は都の廻り一万八千三百八十里に積れり。」
「四方には鉄の築地を高さ四十丈に築き上げて殿の上にも同じう鉄の網をぞ張りたりける。」
「その中に阿房殿とて始皇の常は行幸成つて政道行はせ給ふ殿あり。東西へ九町南北へ五町、大床の下には五丈の幢を立てたれどもなほ及ばぬほどなり。」(平家物語巻第五「咸陽宮」)
 
 咸陽宮は都の廻り一万八千三百八十里に積れり、というのは咸陽宮だけではなく、咸陽の市街全体を言うのだろうが、それにしてもこれは大きすぎる。この頃の中国の1里は約450メートルではあるけれど、18380里もあったら9千キロ近いから地球を四分の一周してしまう!

 一方、平家の阿房宮のサイズも史記の記述の引用だろうが、しかし長さがだいぶ異なっている。史記(秦始皇本記)には、「先作前殿阿房,東西五百步,南北五十丈,上可以坐萬人,下可以建五丈旗。」まず阿房宮の前殿を作ったが、東西500歩〈この頃の1歩は1.35メートルなので、約675メートル〉、南北は50丈〈丈は1.8メートルで、約90メートル〉とある。平家の方は東西が900メートル、南北500メートルと相当に膨らんでいる。これらの長さはいずれも土台の土を突き固めたところの長さだろうが、それにしても咸陽宮の60x45メートルに対して、阿房宮は675x90メートルととてつもなく大きいことはわかる。

 最近、阿房宮の前殿址の発掘が行われたそうだが、まだ建設中の建物であり、焼けた痕跡はなかったという。史記には「項羽引兵西屠咸陽、燒秦宮室、火三月不滅」(項羽は兵を率いて咸陽を攻め秦の宮殿を焼いた。火は三か月も燃え続けた)とあり、従来は項羽が咸陽宮も阿房宮も焼き払ったと言われていたが、阿房宮は渭水の南側(咸陽宮や咸陽の町と反対側)にあり、かつ建設中だったので項羽も火を放つことはなかったのではないだろうか。三か月も燃え続けたのは咸陽宮や渭水の北側にたくさんあった秦帝国の宮殿だったのだろう。

(つづく)

私の西安日記(7) 咸陽宮(その1) 誰も行かない「名所」

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 咸陽は秦国の都であった。漢の高祖、劉邦が攻め陥し、項羽が焼き払ったのもこの都である。秦はそれ以前は咸陽から直線距離で東へ30キロほどのところにある櫟陽に都を置いていたが、紀元前350年、孝公の時代に疝曚噺討个譴討い燭海里△燭蠅冒都し、名を咸陽とした。櫟陽や咸陽など「陽」の字が含まれる土地は、川の北側か山の南側にあることを示している。櫟陽と咸陽はともに渭水の北側にある。(日本の山陽、山陰も同じ理屈。)

博物館
(秦咸陽宮址博物館)
 今の咸陽宮址には小さな博物館がある。しかしお客は誰も来ないと見えて中に人がいるにもかかわらず入口の背の高い鉄扉を閉まったままだ。大きな声で「誰かいますかー?」と叫んで扉をたたくと、しばらくして係員が鉄扉の一部にある畳一畳分ぐらいの扉を開けてくれた。敷地内には入場券売り場もあって「入場料10元」と書いてあるのだが、お金はいらないと言う、全く商売っ気のない市の公務員らしい係員に10元札を押しつけたらとても感謝されてしまった。

 展示室は2つあって、係員が扉を開け電気をつけてくれたのですぐに入ろうとすると、ここ暫く開けたことがないので中の空気が黴臭いからしばらく待てといわれた。湿ったにおいのする展示室には、咸陽宮の磚や瓦などの僅かなものしかないが、磚の線刻はなかなか素晴らしく、さすがに秦の国力を垣間見る思いだった。また戦国7か国を統一した始皇帝が、度量衡も共通にすることを布告した青銅板もある。ここには「皇帝」の文字が見えるので始皇帝時代のものとわかるのだが、貨幣や度量衡、さらには馬車の軌幅まで統一した建国の意気込みが感じられる。

水道管 秦の水道管

 もうひとつ面白かったのは水道管である。焼き物で作った水道管だ。管の片方がすぼまった形になっており、それを嵌め込んでつなげる形になっている。水道建設で一番有名なのはローマだ。。ローマの「街道の女王」と言われるアッピア街道は、紀元前312年にアッピウス・クラウディウスが建設を始めた。秦では恵文王の治世で、ちょうど咸陽宮を作っていた時と重なっている。東西で同じような時期に公共工事が行われたのは興味深い。水道管には断面が五角形のものもある。五角形のものは下水管だと言われるが、どちらがどのように使われたのかは判然としないという。

 
水道管4

 左の写真はローマの水道管である。ローマは千分のいくつというような、現在の鉄道建設で使われているぐらいの精度の傾斜を持つ水道橋をヨーロッパからアフリカ各地で作った。ローマの水道管は石、磚、鉛などいろいろなものが使われているが、秦では磚が主だったようだ。
 
 今から2300年も前に水道管が完備していた都市はローマと咸陽ぐらいではなかったのだろうか。日本はまだ縄文時代から弥生時代へ移り変わるぐらいの文明しかなかった時代のことである。



 (つづく)

私の西安日記(6) 薄姫(その4) 「オタク系、陰キャラ?」 薄姫の韜晦

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 劉邦の重臣で粛清された中にも、韓信や彭越など呂后の命令で殺害された人たちがいます。粛清の魔手を脱したのは張良、陳平、蕭何ぐらいです。張良は劉邦からの恩賞を断った上、仙人になる修行をすると言って田舎へ引っ込んでしまいます。陳平は呂后に呂氏一族をどんどん登用させ自らは酒と女に溺れた振りをして生き残ります。蕭何はわざと賄賂を取り自らの評判を落とし天寿を全うします。張良、陳平、蕭何は漢王朝の「頭脳」であり王朝創立の最大の功労者たちですが、彼らですら姑息な手を使わないと生き残れなかったのです。
 

漢長陵 劉邦の死後15年経ってから漸く呂后が亡くなりました。劉氏に忠実な将軍や大臣たちはまず呂氏一族を壊滅させます。そのあとで重臣たちが集まり次の皇帝を誰にするか話し合いました。劉邦の子で生き残っていたのは四男の恒と五男の長の二人だけですが、長はひどく我儘なことで知られており最初から皇帝候補を外れていました。この時、新皇帝の候補者だったもう一人は斉王の劉襄です。襄は前に触れた劉邦の庶出の長男、肥の息子ですから劉邦の孫に当たります。しかしこの劉襄は母方の叔父で駟均という野心家に後ろから操られているのが明らかだったために、呂氏のような外戚が皇帝を操るのはもうまっぴらだということで候補から外れました。ある意味では消去法によって薄姫の息子の代王恒に皇帝の座が回ったともいえるでしょう。
写真は劉邦の墓、長陵


 しかし、本当は消去法だけではなく積極的な理由もあって決まったようです。つまり恒が薄姫という尊敬すべき夫人の息子だからというのです。重臣たち皆が薄氏を仁善であると称えて、それを理由に恒を迎えて皇帝に立てたという記述が史記の外戚世家に見えます。(大臣議立後,疾外家呂氏彊,皆稱薄氏仁善,故迎代王,立為孝文皇帝。大臣たちは後継ぎを立てることを議論したが、外戚の呂氏が強大だったことを憎んで、みな薄氏が仁善な事を称えた。それで代王を迎えて擁立し孝文皇帝としたのである。) 


 辺地の代にずっといた薄姫が仁善であると知っていたのは、劉邦時代に活躍した朝廷の老臣たちでしょう。劉邦の重臣でこの時にまだ現役だったのは陳平と周勃ぐらいですが、史書の記述から見てこの二人が薄姫が仁善な人だという印象を持っていたに違いありません。


 恒が代王になり薄姫が代国へ行ったのは劉邦が存命中の紀元前196年と思われます。恒が文帝として即位する16年も前のことです。そんな薄姫と劉邦の側近である陳平や周勃の接点を考えると、やはり呂后が捉えられていた2年間にその原点があると考えるのが自然です。呂后不在の間に、重臣たちは「派手め」で「ギャル系」で「イケてる」リーダーとして我が物顔に振る舞う戚姫と、地味なオタク系陰キャラを装いながらも聡明な薄姫を身近に見比べていたに違いありません。


 薄姫や息子の恒が呂后から無事だった理由は史記にも漢書にも殆ど何も書かれていません。しかし、女子高生カーストのような、時代を超えた女性社会のあり方から史記と漢書の記述を見直してみると、薄姫は韜晦というものを心得た極めて聡明な人だったという結論が一番自然な気がします。ですから、文帝以降の漢王朝は結局は呂后でも戚姫でもなく、薄姫の子孫が代々継ぐことになったのは当然ではないでしょうか。

(薄姫の項おわり)


私の西安日記(5) 薄姫(3) 「女子高生的スクール・カースト」から薄姫を見る

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 若い女の子は群れて仲良しグループを作ります。これは中国でも日本でも同じです。女子の天性とも言うべきグループ作りと上下関係という視点から漢の後宮を見てみましょう。

 女子高生の間では必ず仲良しグループがあるほか、個々の子にはスクール・カースト(学校のクラス内の暗黙の身分の上下)があります。私も中学や高校で覚えがありますが、これは漢の後宮でも同じことだったでしょう。薄姫もグループを作っていました。管夫人と趙子児という二人と仲良しだったと史記に書いてあります。これはおそらく魏豹の側室だった時代のことで、魏豹が劉邦に捉えられると3人とも劉邦の後宮に入れられたのでしょう。しかし、漢書には薄姫は機織り部屋に入れられたとあります。同じ年に劉邦は彭城の戦いで敗れ呂后は項羽の人質になりますが、劉邦の後宮に入ったばかりの薄姫は我が身を守るために目立たないよう、後宮に居ながらわざと機織りなどの雑用をこなすことにしたのかも知れません。

 

女子高生
 

 学校での「カースト」の上下にはある程度法則があります。上のカーストに属する子は自己主張ができて目立つ子やおしゃれで綺麗な子、恋愛経験の豊富な子、運動部系の子、金持ちの子、そして声の大きい子などです。逆に下のカーストには自己主張しない子、地味な子、物静かな子、文化部系の子、ゲーマーとかオタク系、陰キャラな子、貧乏な家の子などが入ります。グループのリーダーになるのは必ず上のカーストの子です。勉強の出来不出来はそれほど関係ないと思います。

 

 それが面倒なら群れに入らずに中立の一匹狼でいればいいと男性は気楽に言いますが、そうではありません。中立・独立でグループに属さないのはさらに難しいのです。いわゆる「いじめ」はカーストが少しだけ下の子が対象になります。いじめやすいのは中の下ぐらいのカーストにいる子で、グループに属さず助けてくれる者もいないおとなしい子です。グループに属していない子が真っ先にターゲットになることが多いのです。

 

 高校生ぐらいだと、いじめと言っても、昼食の時に声を掛けないとかその子がまるで居ないかのようにハブる(村ハチブにする)、変な噂を意図的に流す、他の群れからもいじめられるように仕組むなどいう程度のことです。しかしこれが宮中の女性の派閥で、リーダーが自分の息子を皇太子に据えようと互いにしのぎを削っていたら、グループの対立はどんなに熾烈かつ残酷になるでしょうか。まして宮廷では女子だけではなく、宦官も女子グループに加わって陰謀をめぐらしているのです。その中で傷つかずに生き残る(文字どおり命を長らえる)ことがどれだけ大変なことか、現代ではわかりにくいことだと思います。

 

 呂后に対抗する最大のグループのリーダーは戚姫でした。戚姫はいわば「派手め」で「ギャル系」で「イケてる」リーダーだったのです。色気と才気で劉邦に取り入りいったようです。

 

 呂后は違います。劉邦にとっては煙たい古女房であり、大して美人でも「イケてる」わけでもありません。戚姫が来た頃には、呂后は当時としては大年増と言ってもよい30台半ばのオバハンだったのです。たぶん声の大きさとグループ構成員への面倒見の良さ、それに正妻という大義名分でリーダーの地位を保ってきたのでしょう。「女子校生理論」から見れば、呂后は劉邦の死を機に自分のグループだけを残し、後宮に他にいくつもあったグループのリーダーやその側近たちを完全に叩き潰したのです。

 前回書きましたが、戚姫に対してはヤキを入れるなんて生易しいものではなく、目をえぐり耳を焼いてから両手両足を順番に切り落とし、最後はトイレに投げ込んだのです。これは宮廷内に自分以外のグループは存在させないという呂后の強い意思の表明です。史記には記述がありませんが、戚姫と同じころに呂后の手にかかって命を落とした劉邦の元側室や女官、つまり他のグループのリーダーやメンバーはたくさんいたはずです。

 

 そんなすさまじい嵐の中で薄姫が無事だったのは何故でしょう。史記や漢書には、子を産んでからは劉邦から愛される機会が少なかったから宮殿を出ることを許されたとありますが、本当は薄姫がそのような下のカーストの特徴を意図的に装っていたからではないでしょうか。恒が生まれてからは確かに劉邦が薄姫のもとを訪れるのは稀だったようですが、これも皇子さえいれば呂后の恨みを買ってまで劉邦に来てもらう必要などないという薄姫の合理的な考え方に基づいていると思います。そのために薄姫は女子高生カーストで言うと、自己主張しない、地味、物静か、文化部系、ゲーマーとかオタク系、家が貧乏という属性を装ったのではないかと思います。

 

 薄姫の実家は実際に貧乏で係累も少なかったのです。そして自己主張しない、物静か、地味を装って見せる聡明さを薄姫は持っていたのだと思います。先にも書いたように、薄暗い機織り部屋で本来はやらなくてもよい雑用をこなしていれば、陰キャラでネクラだと見られたに違いありません。つまり本当の自分を隠し、地味でオタクで変わり者を装って下のカーストに見せかけていたのです。薄姫は仲良しグループと言われていた管夫人と趙子児らを通じて、自分のそういう噂を流していたのかも知れません。

 

 薄姫が無事だった理由でもう一つ考えられるのは、呂后が2年間項羽の捕虜になっている間などに呂后に何らかの恩を売ったのではないかということです。前の夫、魏豹が捉えられ薄姫が劉邦のところへ来たのが紀元前205年、その同じ年に呂后は項羽の捕虜になりました。呂后が劉邦の下へ戻れたのは紀元前203年ですが、その年の末に薄姫は恒を生んでいます。つまり薄姫が劉邦に幸されたのは呂后の不在中だったということです。

 

 また紀元前203年には劉邦が項羽の放った矢で重傷を負っています。これは呂后が帰ってくる前のことです。3年前に制作された中国のテレビドラマ「楚漢伝奇」は日本ではBSフジやWOWOWで「項羽と劉邦」という題名で放送されました。これは高希希監督が手掛けたドラマで制作費に30億円以上かけたと評判になりましたが、このドラマは史実の考証が綿密なのと、それで不明な部分を上手なフィクションに仕立ててあるのが特徴です。

 呂雉

 「楚漢伝奇」では、矢で射られ意識不明に陥った劉邦の鏃を胸から無理にも抜くべきかどうかで重臣たちの意見が分かれます。この時は上に述べたように呂后は不在なので、重臣たちは戚姫のところへ行きますが、派手目リーダーの戚姫は後で責任を取らされないよう明確な回答をしません。丞相の蕭何は、臣下ではなく身内が決めるべきだという意見なので次に薄姫にお伺いを立てます。その時に薄姫は毅然として今すぐ鏃を抜くべきだと主張します。

 結局は医師が鏃を抜いたことで劉邦は快方へ向かうことになるのです。項羽から解放され戻ってきた呂后は重臣たちから薄姫の決断について聞き、薄姫を呼んで自分の味方としてグループに入るよう伝えます。これに対して薄姫は、鏃を抜く決断については奥方様の代わりを務めただけですと暗に恩を着せると同時に、自分はオタクで陰キャラで自分の身を守ることで精一杯だから誰の邪魔もできるわけがない、という意味のことを言って呂后グループに入ることは婉曲に断ります。

 写真は「楚漢伝奇」の秦嵐さん演じる呂后

 もちろんこれは「楚漢伝奇」の高希希監督や脚本家が創作したストーリーですが、さまざまな面から考えてみてとても説得力があります。つまり薄姫が、鏃に限らなくとも何らかのことで呂后不在中に呂后のためになることを実行して恩を売ったということがあったのではないでしょうか。また同時に、呂后に対しては自らのネクラで陰キャラぶりを充分にアピールしたことでしょう。

(つづく)


私の西安日記(4) 薄姫◆’姫はなぜ呂后に殺されなかったのか

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薄姫1 薄姫は実に不思議な人です。もともとは、魏の王族で項羽に西魏王に列せられた魏豹という人の側室だったのですが、項羽と劉邦の間で立場が定まらない魏豹が殺され劉邦に拾われたのです。そして劉邦の4番目の息子である恒を生みました。

 劉邦には男の子が8人います。長男は、劉邦がまだ沛県にいたころ地元の情婦である曹氏に産ませた肥、次男は正妻呂雉(後の呂皇后)の生んだ盈、三男が寵姫であった戚姫の生んだ如意、そして四男が薄姫の生んだ恒という順です。
 
 戚姫の子の如意や他の側室が生んだ劉邦の息子たちは多くは劉邦の死後、呂后の手で殺されました。しかし薄姫とその息子の恒に呂皇后は手を触れなかったのです。呂后の一人息子の盈(次男)が後の恵帝になるのですが、劉邦の生前、側室の戚姫は自分の子の如意(三男)を皇太子にしようと猛烈な運動をします。また紀元前205年の彭城の戦いの時に呂雉は項羽の捕虜になってしまい、2年後に一時的に和議が結ばれるまでの間は劉邦のもとに居なかったのです。その2年余りの間に劉邦の傍に居たのは戚姫や薄姫でした。
 
 紀元前195年、劉邦が亡くなると呂后は戚姫への報復を始めます。まず戚姫の子の三男如意を領国である趙から都へ呼び出し隙を見て毒殺しました。それから戚姫を捉えて髪を剃って囚人部屋で米を搗かせ、最後には目をえぐり耳を焼き両手両足を切り落としてトイレに投げ込むという壮絶なヤキをいれたのです。
 
 一方、長男である肥の母、曹氏はおそらく故郷の沛県へ帰っていたのでしょう。呂皇后が曹氏に報復したという話は史書には出てきません。その代り斉王となった肥自身が上京して、恵帝となった弟の盈と酒を飲んだ時に、兄として上座に座ったという理由で呂雉は肥を毒殺しようとしました。性格の優しい盈が兄に渡された毒酒の盃に気づいて取り上げ兄を救ったことが史記(呂太后本紀)に見えます。
 
 劉邦のその他の息子たちも呂后の最晩年の紀元前181年から翌年にかけて、その手にかかって命を落としています。六男の劉恢は呂后から送り込まれた妃によって愛妾が毒殺されたのを悼んで自らも服毒自殺、その半年後七男の劉友は呂后によって幽閉され餓死、その僅か3か月後八男の劉建が燕王として亡くなるとその子は呂后によってただちに殺され家が断絶しています。
 
 五男の劉長は天寿を全うしましたが、それは母親の趙氏が劉長を出産するとすぐに呂后によって自殺させられ、劉邦がそれを憐れんで、劉長を自分の子供として育てろと呂后に命じたからでした。この中で薄姫はどうやって難を逃れ、その子の恒も殺されなかったのでしょう。呂后から危害を加えられなかったのは何故なのでしょうか。
 
 薄姫が難を逃れたのは、代王になった恒につき従って都から遠い代国に行ったからだという説をよく聞きます。代は現在の北京の西側、当時としては匈奴の領土と接する遥か北方の辺境にありました。首都長安からは直線距離で820キロと、たしかにかなり離れています。だから薄姫は呂后の迫害を免れたのだというのです。
 
 しかし自殺した劉恢が封じられた梁は長安から620キロとやはり遠いし、餓死した劉友も560キロ離れた趙の邯鄲にいたのです。代国がとりわけ遠いとは言えません。劉恢や劉友の運命から考えてみると、長安からの距離の遠近は、呂后からの身の安全を何ら保障するものではないことがわかります。ですから薄姫と恒が無事だったことには何か別の理由がなければなりません。
 
 その理由として、薄姫がその名の通り、影の薄い地味な人だったから呂后の魔手を逃れたのだと解釈する人は多くいます。作家の陳舜臣さんは次のように書いています。
 
 「薄氏はただの一度寵愛されただけで身ごもり、恒を生んだのである。そのあとも、彼女はめったに高祖(劉邦)に会わなかった。こんな影のうすい女であったから、薄氏は呂太后の魔手をのがれることができた。」
 
 しかし、薄姫は実は物静かでおとなしいだけの人ではなかったのです。その証拠が同じ史記の絳侯周勃世家にあります。後に息子の恒が文帝となったあと、劉邦が沛県で挙兵して以来の臣である周勃が謀反の疑いをかけられ投獄されたことがありました。薄姫は(その頃は薄太后ですが)文帝が訪ねてきた時に冒絮(被り物)を投げつけて激しく叱っています。「絳侯綰皇帝璽,將兵於北軍,不以此時反,今居一小縣,顧欲反邪!」 
 
 絳侯(周勃)は(呂氏を誅滅してからあなたが即位するまで、漢の総兵力の半分である)北軍を率いる将軍として皇帝の玉璽を守ったのです。その時に謀反を起こさず、小さな県に引退した今頃になって謀反を起こすとでも思うのか、と怒鳴ったのです。
 
 自分が正しいと思うことを、息子とはいえ皇帝に対してこれほど激しく主張できる人が、若い頃におとなしく影の薄い人と思われていたのなら、それは呂后から身を守るための薄姫の演技だったのではないでしょうか。
(つづく)


 


私の西安日記(3) 薄姫 ’姫の墓

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薄姫は漢の劉邦の側室で、三代目の皇帝になった文帝の母です。母方が魏の王族であり、苗字が薄氏なのはわかっていますが、名は伝わっていません。薄姫の陵は、前回ご紹介した覇上にあり、正式名称は「漢薄太后南陵」といいます。つまり皇帝の母として葬られているのです。
薄姫4

 
 今は使われていない広い駐車場から雑草の生えた石段を登り、色褪せた正門を入ると参道が続いています。ここは観光地として売り出そうとして失敗したのでしょう。駐車場横の木造のシャレた大きなレストランも扉に錠がかかって風化しかけています。一日に何万もの人が押し掛ける兵馬俑博物館へ行く道筋から覇上が外れているせいでしょうか。

 

 正門からの参道の両側には、文帝が薄太后に親孝行だったという言い伝えから、中国で有名な親孝行の故事を石碑にしたものが並んでいます。陵そのものへは登れないように参道の突き当りはフェンスで囲われ鉄柵の扉が鎖で閉じられていますが、そこは中国です。門扉の鎖が長く緩いために扉の隙間から中へ入れるのです。

薄姫2 そこからさらに石段を百段以上登って陵のてっぺんに到着です。ここからは唐以降の長安の都とその一部である現在の西安城、その向こうに渭水を隔てて咸陽が眺められます。ちなみに今の西安の空港は渭水の北、咸陽の側にあり、咸陽空港と呼ばれています。またここからは薄姫の夫劉邦の長陵、息子文帝の覇陵も遠望できます。
 

  薄姫というのは不思議な人です。同じく劉邦の側室だった戚姫が正妻の呂后に惨殺され、その子の如意も毒殺されたのに対して、薄姫もその息子の恒も呂后の迫害をうけなかったのです。その理由について、女子高生のグループ形成やスクール・カースト(学校内での暗黙の身分)という視点から次回は見てみることにします。

薄姫3

 


私の西安日記(2) 劉邦が布陣した覇上

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 スマホでは㶚上の「㶚」の字が表示されませんので、「覇」としておきます。
 本当は、「覇」にサンズイがついた字で、パソコンなら表示されます。


 覇上というのは、漢の高祖劉邦が関中に入って最初に陣を張ったところです。劉邦は嶢関を破って関中へ攻め込み秦の首都咸陽を攻めようとしました。秦は既に二世皇帝も悪宦官趙高に弑されており、秦始皇帝の孫にあたる秦王子嬰がこの㶚上まで出向いて劉邦に玉璽を渡し降伏したのです。そのせいもあって史記の中で劉邦は、㶚上は自分にとって縁起のよい場所だと言っています。


 この辺りでは渭水渭水が東西に流れていて、その北が秦の咸陽、南が後の漢の長安、その東側が唐の長安から現在の西安市となっています。㶚上は咸陽から渭水を隔てて南側で、唐長安のさらに南東の郊外にあります。地図ですと渭水などちっぽけな川に見えますが、写真のように利根川ぐらいは川幅のある結構な川です。


 漢書には「沛公引兵繞嶢關,踰蕢山,撃秦軍,大破之藍田南。遂至藍田,又戰其北,秦兵大敗」とありますので、地図の外側の右下にあたる南東の藍田県から咸陽に攻め上ったのですから、㶚上はちょうどその通り道にあるとも言えます。同時にこのあたりは写真のように高台になっていて、ちょうど今の西安を経て咸陽を見下ろすところにある上、(写真は曇っていますが、北西の咸陽方向を眺めたものです)北は渭水、東は㶚水、西は滻水と川に囲まれて攻めにくい場所でもあります。縁起がいいと言うだけではなく、そういう地理的、軍事的な条件から劉邦はここを駐屯地に選んだのだと思います。今の㶚上はいくつもの大学が居を構えるところになっています。ここも有名な土地ではあるものの別に観光地ではないので、訪れる人はほとんど見かけません。
㶚上から咸陽
(㶚上から咸陽方向を見ると、こちらの方がかなり標高が高い)
 

 劉邦はいったん咸陽へ入り、その豪華さと富、大好きな馬と闘犬、そして後宮の女性に目を奪われて留まろうとしたのですが、樊噲と張良が㶚上へ戻るよう厳しく説得しました。

張良は、『忠言逆耳利於行,毒藥苦口利於病』,願沛公聽樊噲言。」沛公乃還軍霸上。(忠言は耳の痛いものだが行為には益がある。劇薬は口に苦いものだが病には利くものだ。だから樊噲の言うことを聴いて下さい。そこで沛公は㶚上へ軍を還した。史記留侯世家)

 地図2


 一方、函谷関から攻め込んだ項羽は少し遅れて、やはり渭水の南ですが遥かに東側の鴻門に陣を張りました。地図の右外側の方にあたる秦始皇帝驪山陵に近いところです。先に関中入りした者を王とするという楚の義帝の命令に従って秦を攻めた劉邦と項羽でしたが、項羽の軍師である范増は、先に関中入りした劉邦をおびき出して殺すべきだと進言しました。項羽は劉邦を自陣の鴻門まで呼び出し宴会を開きました。これが漢文の試験によく出る「鴻門の会」です。范増は宴会のさ中に劉邦を殺そうとしましたが、軍師張良の機転と猛将樊噲の勇気のおかげで劉邦は何とかその場を脱して、㶚上の自陣まで逃げ帰ったのです。

 このあたりの話はいわゆる漢楚軍談のハイライトですから私も子供の頃から話はよく聞かされて覚えていますが、項羽や劉邦の陣や咸陽との位置関係も距離感もわからず、ずっとモヤモヤしていました。今回はその舞台を実際に車で走ってみて、それぞれの場所の間の距離が思ったよりずっと遠いことを実感しました。

 鴻門から㶚上までは、今の高速道路経由で約40キロ、中国の里程では80里とかなりの距離があります。劉邦が鴻門から自陣に逃げ帰るのにはずいぶん時間がかかったでしょう。漢書には「沛公留車騎,獨騎一馬,與樊噲等四人步從,從瞭算害杓伝霸上軍」とありますから、劉邦は一人だけ馬に乗り、樊噲など4人は走って帰ったのです。

 現代のマラソンは42.195キロだから、ちょうどフルマラソンを走るようなものです。樊噲が宴会場へ乱入した時には盾で兵士を突き飛ばしていますから、鎧を着て重い軍装をしていたのでしょうし、ゴールに当たる㶚上への入口はかなりの上り坂になっています。有森裕子さんや高橋尚子さんでも2時間半かかる距離なのだから、どう考えても劉邦が命からがら逃げるのには4時間以上はかかったことでしょう。史記や漢書の記述は「從瞭算害杓伝霸上軍」と、とても簡単であっさりしていますが、現地を見て実際の距離を知ると、いろいろ余計な想像の湧く余地も増えるものです。

 

私の西安日記(1) 焚書坑儒

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 夏休みに北京へ帰省しました。北京にいると母に小言を言われ続けるので、途中ちょっと避難の意味もあり西安へ旅行しました。西安は初めてです。西安市一帯は秦の咸陽、唐の長安など何度も都の置かれたところなので、さまざまな時代の遺跡が重層的に散らばっています。
 
 秦始皇帝驪山陵の兵馬俑はもっともよく知られた遺跡です。8月は夏休みで子供連れの人たちが車で訪れるので、西安市の北東に当たる驪山方面へ行く高速道路が動きが取れないほど渋滞します。一人っ子政策のせいで、子供のためなら親は無暗に頑張って夏休みにあちこちへ連れて行くと聞きました。私ももちろん兵馬俑は見たかったのですが、3車線がすべてびっしりと兵馬ならぬ車で埋め尽くされた高速道路を眺めて恐れをなし、人のあまり行かない遺跡を訪ねることにしました。
 
 今日ご紹介するのは、秦始皇帝が儒者を穴埋めにしたという坑儒の場所です。この場所も驪山陵と同じく西安市の北東にありますが、驪山よりは西安寄りなので旧道を通っていけます。臨潼県洪慶堡(今は市町村合併で西安市臨潼区洪慶堡という表示に変わっている)という村で、始皇帝の宮殿だった咸陽宮からは40キロぐらい離れています。
坑儒1 人が少ないのはいいけれど、車を運転してくれた生粋の西安っ子の友達ですら場所も知らないという田舎で、車が漸く1台通れるかどうかの農道を走りました。しかも最後は道路が途切れています。仕方なく近くの農家に頼んで家の中を通らせてもらって庭へ出て到着という、観光とは全く縁のない所でした。新しいパンプスを履いていたのに前日の雨のため踝まで畑の泥に突っ込んでしまい、泣きの涙で歩きました。自家用のネギ、山椒、へちま、胡桃、柿、綿などが植わった農家の畑の泥濘の中を百メートルぐらい歩くと「秦坑儒谷」と書かれた石碑が一つ立っていました。裏側に碑の由来があり、1994年に臨潼県によって建立されたものだとわかりました。
 
 もともとこの辺りは坑儒の言い伝えによって「洪坑村」と呼ばれていたそうです。今でも時おり鬼(幽霊)の泣き声がするなどと言われる場所なので、陝西方言で「坑」と同じqingの発音の「慶」と置き換えて「洪慶村」という縁起の良い名前に付け替えたのだそうです。
 
 泥だらけの靴のまま農家の2階に上がらせてもらって周辺を見ると、この辺りは少し高くなった土地に取り囲ま坑儒6れた小さな盆地のような地形です。2千年前には洪慶溝と言われた谷があり、そこへ400人ほどの儒者を落として生き埋めにしたそうです。始皇帝から900年あまり後の唐の玄宗時代になって、埋められた儒者たちを祭る祠がこの地に作られたといわれ、先ごろ唐代の祠の儒者像の一部がこの地から見つかったということでした。

この辺りは西安から兵馬俑見物に行く道筋にあたります。リッチな農家を指す万元戸などという言葉が使われだした1980年代の農村ブームのころ、ある外国人が坑儒記念碑を中心としたテーマパークを作って兵馬俑見物に行く観光客をここへも呼び込む計画を県に持ちかけました。付近の村の農家から、当時としては大金の合せて60万元を集め、それを「坑儒パーク」の元手にすると言いながら、結局はその金を持って姿をくらまし国外へ逃亡するという事件が起きたのだそうです。

 その苦い教訓のせいでしょうか、それ以後はこの村では再び観光地化を目指す住民もなく、今のように鄙びた農村であり続けているそうです。孔子の言う通り、「不義而富且貴、于我如浮雲」(不義にして富み且つ貴きは我に於いて浮雲の如し)と思ったのかも知れません。

 

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