私の「満鉄」旅行記(6) 満洲国には「国民」がいなかった!

 

◆ 満洲の住民

 20世紀初頭には1500万人程度だった満洲の人口は、1940年には4100万人まで膨張していました。日本の貧しい地方から満洲のあちこちに開拓団が移住したことや、満鉄の関係者、さらに日本から逃れるように大陸に渡った若者などがたくさん住んでいたのです。また日本の朝鮮総督府が進めた朝鮮人満洲移住計画のためでもあります。朝鮮北部の咸鏡道・平安道の朝鮮人を吉林省へ送り、南部の慶尚道から黒龍江省へ、南部全羅道から遼寧省へというように60万人ほどの朝鮮人が移住したと言われています。とは言え4100万人の人口のうち満洲族を含む中国人が94パーセントで大多数でしたが、200万人以上の日本人(朝鮮人を含みます)や6万人余りのロシア人も住んでいました。しかし、実は満洲国は「国民のいない国家」だったのです。

 

 なぜ国民がいないのかというと、満洲国には憲法がなかった上に、国民の要件を定める国籍法も作られなかったからです。ですから「満洲国籍の民」というのは法的には存在しなかったのです。満洲ではなぜ国籍法を作らなかったのでしょうか。

 

◆ 国籍法ができなかった理由

 いくつか理由がありますが、その一つは満洲に住む日本人が満洲国籍になることを嫌がったからです。先ごろの蓮舫議員や全米オープンテニスで優勝した大坂なおみ選手の件でおわかりのように、日本は今でも二重国籍を認めていません。当時の国籍法(1899年法律第66号)では、第20条に「自己ノ志望ニ依リテ外国ノ国籍ヲ取得シタル者ハ日本ノ国籍ヲ失フ」とあります。(いまの国籍法でも同様で、第11条に「日本国民は、自己の志望によつて外国の国籍を取得したときは、日本の国籍を失う」とあります。)

 

 当時、満洲に住む日本人は領事裁判権の適用や課税の免除といった治外法権を持っていました。日本国籍のままでも取り立てて何の不自由はなかったのです。満洲から外国に出る際はどうしたのでしょう。日本人や朝鮮人は日本のパスポートを使えますし、日本へ渡航する時には戸籍謄本だけで十分だったのです。ですから、日本人にとって満洲国籍になるメリットは何もないに等しかったのです。

 

 特に満洲国の政府機関で働く日本人は、日本の官庁や会社のポストに戻ることがあるわけですから、満洲国籍を取り日本国籍を捨てるわけにはいかなかったのです。満洲側では二重国籍を認めていましたが、日本国籍を放棄してしまったら、日本の官界や実業界への復帰の道が絶たれてしまいます。(左は大日本帝国旅券)

 

 「五族協和」というスローガンを掲げた日本の軍部は困りました。漢、満、蒙、朝、日の五族と言いながら日本人だけが「外国人」では、スローガン自体が成り立たなくなるからです。満洲国政府を日本の指導下に置きたいものの、満洲国の官僚や幹部である日本人が日本国籍の「外国人」で治外法権を振りかざしていては「五族協和」のお題目が最初から嘘だとばれてしまう。ですから関東軍は満洲国の国籍問題や法案に関する情報が表ざたにならないよう大変に苦労しました。

 

◆ 外国人である日本人に対する不満

 実際に満洲国政府の漢族や満州族幹部の間では、「外国人」である日本人がなし崩しに大挙して乗り込んできて政府の要職を独占したことに不満が高まっていたようです。早稲田の先生で日本の旧領土での国籍問題に詳しい遠藤正敬さんは、当時の日本の在吉林領事から外務省宛ての以下のような秘密電報を紹介しています。

 

「1934年4月,在吉林領事の外務省宛電報では『日本国籍ヲ有スル者カ満洲国ノ官吏タル為中央地方全体ヲ通シ満洲国人官吏トノ感情融和セサル所有リ』満系官吏は『内心ハ殆ト全部不快ノ念ヲ抱キ敬遠的態度ヲ取リ』日満官吏における軋轢は深まっていた。」

「日本人官吏の国籍が不分明のままその地位を存続すれば,『満洲国人』の民族意識に悪しき影響をもたらすばかりでなく,満洲国の独立国家としての形態を欠損するとの懸念が日本側にも強くなっていた。」

 

 また、日本から移民してきた農民にも、お前たちは満洲国へ移住してきたのだから明日から日本人ではないというロジックは通用しませんでした。満洲国籍を作ってしまうと移住した農民たちは日本国籍を放棄せざるを得ません。でも、隣接する朝鮮や台湾では朝鮮人、台湾人を、二等国民にはせよ、日本臣民として扱っていたのですから、満洲では日本国籍を捨てろと言われたら新規の開拓農民が入って来なくなってしまうでしょう。「金鵄輝く大日本帝国臣民」だと思い込んでいた日本の農民などがこれを認めるはずがありません。こんな理由で満洲国には終戦まで国籍法が無く、その結果として国民がいなかったのです。(左は満洲国のパスポート)

 

 満洲国には憲法もなかったので、関東軍は国籍法がない事も曖昧なままにして最後まで放置しました。最初から満洲に住んでいた中国人の「戸籍」を作り、戸籍を持った人は国民だということにしてお茶を濁しました。中国人でも山東省あたりからたくさん入って来ていた季節労働者などは、満洲域内に戸籍がないということで外国人扱いにし、同時に革命を逃れてきたロシア人に関しても、ソビエトからクレームがつくのを恐れて無国籍のままで放置しました。一方で、朝鮮人も含む日本人は日本や朝鮮に戸籍があれば満洲に戸籍がなくても構わないという行き当たりばったりで杜撰な解決法を取ったのです。

 

◆ 間抜けな主張

 日本の右翼がネットでこんなことを書いていました。

「満洲は明らかに清朝の復活です。満洲人の満洲人による満洲人のための満洲国を作りたかったんだけれども、それをやる能力がないから日本が内面指導したんです。大臣はすべて満洲人か清朝の遺臣でした。」

 

 この主張は「大臣は全て満洲人か清朝の遺臣」というところからして間違っています。上に書いたように満洲国には国籍法がなかったのですから、「満洲人」とはなんでしょうか? 大臣は殆どが漢族であって、満州族ではありません。また、満洲国政府の初代の実業部部長(経産大臣)になった張燕卿は清末の政治家、張之洞の息子ですから満洲生まれではないし、1898年生まれで辛亥革命の時にはまだ13歳ですから清朝の遺臣であるわけもありません。それに各部の次長(副大臣)のポストにはほとんど日本人が座っているのです。中国人にその能力がないから日本人が次長にすわって「内面指導」(ってどういう意味でしょうね)したというなら、つまり治外法権に守られた外国人が政府に乗り込んで意のままに操ったということではありませんか。

 

 憲法もなく、選挙もなく、治外法権を持った「外国人」が皇帝の秘書から政府の要職までを独占した国、国籍法がなく国民が不在だった国、立法院は作ったけれど議員選挙は行われたことがない国、それが満洲国の実態でした。

 

◆ 日産とルノーに例えてみれば・・・

 昨日ちょうど日産のゴーン元会長が保釈になったので、満洲国を日産という企業に例えてみましょう。この企業には定款がないのです。そして労働契約もないので誰が社員なのかはっきりしません。とにかく工場へ出勤してくる人が社員であるということにして業務を行っているだけです。フランスと日本の「二族協和」企業をスローガンにしており、代表取締役会長や取締役はすべて日本人ですが、執行役員や各部の部長はすべてフランス人で占められています。しかもこれらのフランス人はすべて外交官であり治外法権を持っていますから、日本でどんな犯罪に関わろうが日本では処罰されないのです。また、会長の秘書などはすべてフランスの軍人で、経営方針はフランス政府とフランス軍の意向に沿って決定されています。就業規則はありますが、治外法権を持ったフランス人はこれに従う必要はありません・・・。

 

 こんな組織を会社と呼べるでしょうか?こんな組織を日本人とフランス人の「二族協和」を目指す理想の企業だと言えるでしょうか? 全く冗談にもならないレベルであることが明白だと思います。満洲国というのはこんな存在だったのです。そこで従業員たちがいくら真面目に働いていたとしても、これが企業と呼べないことに変わりはありません。

 

 企業や法人で言えば定款すらない団体、そして今の言い方をすればガバナンスやコンプライアンスどころか、その根拠となる基本的な決まりすら存在しないのが満洲国という「組織」だったのです。満洲国は理想の国家建設だったなどという馬鹿らしいお伽噺を今になっても意図的に吹聴する日本人がいます。国家の建設が国民の存在なしにできるものかどうかという最も基本的な事に目を向ければ、満洲国が「国家」ではなかったことは明白です。

 

 石原莞爾は、所詮は陸軍の学校しか出ていない田舎の秀才でした。ドイツに留学したものの、国家の構造や法治の仕組みなどは学ばず、白人に対する嫌悪感を増長させたに過ぎなかったのです。彼は結局は世界を見据える目を持たない空想家の軍人に過ぎませんでした。国民のいない「満洲国」が「国家」とは呼べない事は自明の理だからです。

 

(「私の「満鉄」旅行記(7)満映 李香蘭と甘粕正彦」に続く)


私の「満鉄」旅行記(5) 満洲国皇宮(2)

満洲皇帝の執務棟「勤民楼」

 緝煕楼(しょうきろう)の裏側には溥儀が公務を執った勤民楼があります。ここには溥儀や宮内府の官僚たちの執務室の他、皇帝の御座所、日満議定書が署名された部屋やパーティー用の大広間などがあります。緝煕楼や勤民楼の内部は満洲国崩壊後のソ連軍の侵攻や国共内戦のために破壊されてしまい、2000年から偽満皇宮博物院として公開するための工事が始まりました。10年余り前の朝日新聞に次のような記事が載っています。

 

愛新覚羅・溥儀の「皇宮」、全面復元へ 中国・長春

中国吉林省長春市の「偽満皇宮博物院」が、「満州国皇帝」とされた愛新覚羅・溥儀の住居や執務室周辺の「全面的な復元」とリニューアルを進めている。抗日戦争の歴史を伝える「愛国主義教育基地」の役割強化とともに、観光客への魅力の向上がねらい。関東軍が使用したとされる馬場やその関連施設が復元されたほか、大規模な展示館も新たにオープンした。長春市政府が「皇宮復元計画」を打ち出したのは00年。溥儀が執務を行った「勤民楼」や住居とした「緝熙楼」などに関連資料を展示してきた同博物院は、1万2000平方メートルだった敷地を約10倍以上に拡大。周辺の庭園復元など計23項目の建設計画を進めてきた。すでに建設が終わった馬場は乗馬観光などもできるようにする予定。また「御花園」を復元し、大規模な緑化公園を建設する工事も進む。さながら溥儀と抗日戦争を主題とした大規模なテーマパーク建設の様相だ。2006年10月6日朝日新聞

 

 ちょうどこの記事が書かれた頃は北京オリンピック前のバブル初期で、テーマパークで人を集めるのが流行りだったのです。西安でも秦始皇帝が焚書坑儒で儒者を生き埋めにした場所のテーマパーク化が計画された話を以前書きましたが(私の西安日記(1)焚書坑儒http://zhao.jugem.jp/?eid=913、満洲皇宮は「不忘先事、後事之師」というわけで、様々な当時の資料を基にまともな復元が進められているようです。元の皇宮の敷地は戦後は一般の用途に使われていたため、復元のために3つの市場、2つの学校、2つの工場、ガソリンスタンド1つ、それに600戸あまりの住宅を移転させたというのにはびっくりしました。今の計画では最終的に工事が終わるのは2024年の予定だということです。

 

 皇帝溥儀の執務室のすぐ隣は皇帝御用掛だった日本の軍人、吉岡安直の執務室です。吉岡は関東軍司令部付の立場のまま、この役を務めていたのです。吉岡については溥儀自身が「我的前半生」の中で、自分に対する監視や言動について批判しているほか、溥儀の弟、溥傑氏の夫人だった嵯峨浩さんも吉岡が皇帝を操っていたと書いています。しかし、吉岡や侍衛長だった工藤鉄三郎については溥儀に対して実は大変忠誠を尽くしたという意見の人もあり、日本人はそれをめぐって今でも議論を戦わせています。
 

 でも、そもそも日本の軍人が皇帝の部屋の隣で御用掛として執務していること自体が、五族協和なんてスローガンが最初からデタラメだったことを示しているじゃないですか。吉岡自身がどのような気持ちと心構えだったかなんてコトは中国人にとってはどうでもいい話なのです。日本人である関東軍の現役将校が満洲国皇帝御用掛を務めるという満洲国政府の枠組みそのものに関する議論は横に置いて、皇帝への忠義などに話を矮小化し枝葉末節の議論に口角泡を飛ばす日本人はホントに重箱の隅しか見ない人たちだと思います。

 

 

 勤民楼の下には溥儀の乗用車も展示されています。これは溥儀が個人的に使っていた車だと言われますが、説明書きがないのでメーカーも車種もよくわかりません。満州国皇帝の御料車(公用車)は米国製のパッカードのリムジンだったのですが、この写真の車は公用車より小さく窓の形も違いますし、エンブレムも異なります。ここの売店では公用車パッカードの模型を売っており、車好きの日本人が結構買っていくということでした。

 

満洲皇帝の新宮殿

 この手狭な宮殿は仮のものという扱いで、本来は町の南西側に新宮殿が作られる予定でした。新宮殿は1938年に建設が始まりました。宮殿は東西220m、高さ31m、2階建てという壮大な建物もなる計画で、屋根瓦は北京の紫禁城と同様の黄金色の瑠璃瓦が葺かれる予定でした。しかし戦争の激化で建設資材が足りなくなり、1943年に工事は中断されたまま終戦を迎えることになります。終戦までには地下の部分しかでき上ってはいなかったのです。

 

 戦後、国共内戦のあと、中国政府が日本の作った設計図を基に建設を再開し、1950年代になってこの建物を4階建てで完成させました。もちろんその用途は宮殿ではなく、長春地質学院の教室として使うためで、その後長年にわたって地質学院の学生たちが学んだこの建物は、今は吉林大学の地質博物館になっています。一般公開されていると言われていましたが、私が訪れた時には改修工事中で中へは入れず、しかたなしに正面から写真だけ撮りました。この広場は宮殿正門前の広場になるはずだったのですが、今は長春文化広場として公園になっています。この公園から延びる新民大街の大通りには満洲国の政府機関や官庁が立ち並んでいましたが、今も建物はほとんどがそのまま残っていて、かつての満州国軍事部、司法部、経済部、交通部、満州中央銀行本店、国務院なとが並んでいます。もちろん今の用途はまちまちで、大学や病院、吉林省政府機関や党の機関などが奇妙な形の古めかしいビルに入居しています。(偽皇宮の項、以上)


私の「満鉄」旅行記(4) 満洲国皇宮(1)

 

 清朝最後の皇帝である溥儀を1932年に日本が擁立して建国したのが満洲国です。溥儀は当初は執政という肩書で、2年後に皇帝を名乗りました。その年に長春は「新京市」と改名され満洲国の首都という事になりました。

長春市は瀋陽から直線距離で270キロほど、日本で言えば東京から岐阜市までの距離と同じです。満鉄のこの区間を昔のあじあ号だと大体3時間半、急行のひかり号だと4時間半で結んでいました。今は新幹線(高鉄)で1時間20分ほどで長春に到着します。あっという間に着く感じです。

 

 ちなみに満洲国当時の満鉄特急あじあ号は大連とハルビンの間を、急行ひかり号は朝鮮の釜山から京城(ソウル)、平壌、奉天(瀋陽)を経由して新京まで、急行のぞみ号は釜山から京城(ソウル)、平壌を経由して奉天まで運行していました。

 

 「ひかり」や「のぞみ」という満洲・朝鮮の急行の愛称は東海道新幹線の列車名にそのまま転用されています。こんなところも日本人の満洲に対する懐旧趣味から出たものではないかと思ったりします。(写真は急行ひかり号)

 

 

 

 

 

 

 

(長春駅南口)

 

 長春駅はいま南口の大工事を行っており、北口しか使えません。しかし駅が巨大なので、地下鉄1号線では南口に長春駅、北口には一駅先の長春駅北という二つの駅があります。駅の南側が昔も今も町の中心で、南口のすぐ前にかつての大和ホテルがあるのですが、今はこの区域も再開発工事中で近づくことができませんでした。

 

 

  満洲国の皇宮はこの長春駅北から4号線に乗り換えて偽皇宮駅で降りるのが一番便利です。料金は2元(約32円)。4号線は一部が地下を走っていて確かに「地下鉄」なのですが、実質的には路面電車です。都電荒川線が地下を走っているようなものです。中国語でも「地鉄4号線」と「軽軌4号線」の両方の表示があります。(ちなみに「軽軌」はlight Railの直訳です)

 

 

 

 偽皇宮駅で地上に出ると目の前に延々とベンガラ色の塀があり、それに沿って下って歩いて行くと満洲国皇宮の入口が見つかります。 

 

 

 

 

 

 

 

             (緝煕楼)

 

 門を入って最初にあるのが溥儀や皇后の住居だった緝煕楼(しょうきろう)です。皇宮は町の真ん中に建設予定だったのですが建設が間に合わなかったので、ここにあった吉黒榷運局公署の建物をそのまま利用しました。緝煕楼は1911年に作られた榷運局の事務所棟です。(吉黒は吉林省と黒龍江省のこと)

 

 「榷」(かく)というのは専売のことで、榷運局とは塩の専売を中心にした税金を取り扱う税務官庁です。1934年に日満実業協会がまとめた「満州国財政状態ノ概要及内国税徴収事務ノ現況」を見ますと、満洲国の税収全体の約30%が塩の専売からあがっています。それに次ぐのは出産税(生産物を生産者が売り渡す時にかかる税。別に赤ちゃんができたら払う税金ではない!)で17%、田賦(農地・農業税)が10%、銷場税(売り場税ということですから、商業税だと思います)が9%などとなっています。ですから榷運局はたかが塩の専売という事ではなく、最も大きな税収を扱う官庁だったのです。それを転用して溥儀の皇宮にしたのです。敷地の面積は4.3ヘクタールほどだったと言います。

 

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私の「満鉄」旅行記(3)瀋陽という町

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 瀋陽は、明が滅びて清朝(当時は後金)が北京に都を移すまで盛京と呼ばれた清朝の最初の都であり、その後は奉天と瀋陽の2つの名をとっかえひっかえしながら現在に至っています。ここには後金の最初の2人の皇帝、ヌルハチとホンタイジの皇居(故宮)があり、盛京はこの皇居を中心にした都市でした。写真は1884年に瀋陽を訪れたイギリス人が撮った写真(色は後でつけたもの)です。城壁に囲まれた街であったことがよくわかります。

 

 

 清朝末期の日露戦争後には東清鉄道の瀋陽駅周辺は満鉄の付属地となりました。現在も使われている瀋陽駅は1910年に完成したもので、東京駅を設計した辰野金吾の学生であった太田毅と吉田宗太郎によって設計されました。そのため自分の先生が作った東京駅と外観が何となく似ていると言われます。

 

2010年に新幹線(高鉄)の開通とともに、瀋陽駅では元の駅舎を残して、その西側(裏側)に巨大な駅舎を増築しました。写真で駅舎の後ろにドームのように見えるのが新幹線の駅です。瀋陽駅は、故宮など旧市街からかなり西に離れていますが、日本の行政、警察権のもとではこのあたりを中心として都市計画が行われ奉天の「新市街」として発展していきました。

 

 

 瀋陽駅周辺は都市計画で碁盤の目のように道路が作られています。それを斜めに突っ切る真っ直ぐな道を10分ほど歩くと中山広場へ着きます。満洲時代には奉天大広場と呼ばれたところです。横浜正金銀行(現在は中国工商銀行)、朝鮮銀行奉天支店(華夏銀行)、奉天警察署(瀋陽市公安局)、奉天ヤマトホテル(遼寧賓館)などの建物が丸い広場を囲んで建っています。

 

 

 この辺りでは「満洲の健在ぶり」を懐かしむ日本人観光客がよく写真を撮っています。しかし実はこれらの建物は既に古くなりすぎていて使いにくいのです。この話は新京の項で書きますが、冷暖房とか電気やLANの配線などを考えると、築100年のこれらの日本時代の建物は修理や維持にお金がかかりすぎるのです。空き家になっているものも出始めています。ただ、これらの建物は歴史的建造物に指定されたので壊されることはなさそうですが、実際にはその使命を既に終えたと言えるでしょう。

 

 

 いまの瀋陽の中心はむしろ瀋陽北駅から南の市府広場あたりにかけてです。北駅前は写真のように新しい高層ビルが立ち並んでいてオフィスやホテルがたくさんあります。日本には満洲を懐かしむ老人やレトロオタクが多いので、何かと言うと「日本が作り上げた瀋陽市街」のような言辞を見受けますが、実際には既に「博物館入り」の状態であり、今の瀋陽の中心は北駅付近の高層ビル街の方にあるのです。日本人はもういい加減に「満洲」に対する懐旧趣味を卒業した方がいいと思います。(PC版は次ページへ続く)

 

 

 

 

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私の「満鉄」旅行記(2)瀋陽(旧奉天)まで

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 前回書いたように、北京から瀋陽へはかつての京奉線に乗って行きます。今は在来線に並行して新幹線(高鉄)が通っています。日本と違って在来線も新幹線も軌道の幅は同じ標準軌(4フィート8.5インチ=1435mm)ですから新幹線は在来線の駅も使っています。北京駅では昔ながらの緑色の在来線急行も新幹線とホームを共用していました。

 

 北京から瀋陽までの在来線特急の停車駅と、新幹線の駅を比べてみましょう。午後1時に北京を出る在来線急行の停車駅と到着時刻はこんなふうです。

北京    13:00

黃村    13:30

廊坊北 14:02

楊村    14:34

天津    15:23

唐山    16:53

灤県    17:44

北戴河 18:43

秦皇島 19:04

山海関 19:38

瀋陽    0:53

 

 在来線急行は機関車が客車を引っ張るかたちの昔ながらのもので、北京を出ると天津や唐山へ少し回り道してから北へ向かいます。北京から瀋陽までは11時間53分かかり、これはかつて張作霖が瀋陽駅近くで爆殺された時の列車とスピードは大して変わりません。実はこの列車は瀋陽が終点ではなく、瀋陽からさらに吉林市を通って北朝鮮国境の延辺朝鮮族自治州の図們まで行くのです。図們には翌日の午後3時過ぎの到着ですから、北京から26時間以上かかるわけです。

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私の「満鉄」旅行記(1)切符を買う

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 3年ぶりの帰省でしたが、北京であの怖い母とずっと顔を突き合わせていると気づまりになりました。しかも母は相変わらず仕事が忙しそうなので、掃除も洗濯も炊事も結局は私が全部引き受けることになります。

 

 そこで北京を離れ旧満鉄(南満洲鉄道)の旅をすることにしました。川村湊さんという方が戦前の資料を大変詳しく読み込んで書いた「満洲鉄道まぼろし旅行」という本を最近読んで興味を持ったのが理由です。私は1週間程度の短い期間ですから、北京からまず昔の京奉線で奉天(瀋陽)へ行き、そこから旧満洲国の首都だった新京(長春)、そしてかつてあじあ号が疾駆した大平原を突っ切って南の玄関口である大連へ下るという行程にしました。 

 

 中国では「満洲国」に関係するものには「偽満洲国」「偽満洲皇帝」のように、全て「偽」の字を前につけることになっています。そうでないと現政権が「満洲国」を認めた事になってしまうし、「満洲国」時代に作られたものが中国にはまだ余りに多く残っていて今も使われていることの2つの理由からだと思います。でも私は「偽」の字をいちいち付け加えるのが煩わしいので、「満洲国」とか「満鉄」、「満洲」と書くことにします。

 

 満洲というのは、そもそもは中国東北部の土地を指す名前ではなく、満洲族という民族の名です。満洲族はツングース系の民族で女真人とも呼ばれました。宋の時代に中国北部に勢力を張った「金」は女真人の建てた国ですし、清朝も同じく女真人の国でした。陳舜臣先生によりますと、女真人に文殊菩薩の信仰が広まり、自分たちを「文殊」の民という意味で発音の近い「満洲」族と呼ぶようになったのだという事です。もちろん学者たちは様々な異論を唱えていますが、じゃあなんで満洲なのという問いには誰も答えられないようです。(次ページへ続く)

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