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私のブラジル日記(10) ブラジルの日系人

 リオ五輪では日系ブラジル選手が活躍しました。水泳のオープンウオーター女子10キロで銅メダルをとったポリアナ・オキモト選手は日系4世。また体操の男子種目別床運動で銅メダルのアルトゥール・オヤカワ・マリアーノ選手は日本名を「ノリ」といい、内村航平選手にあこがれて体操を始めたそうです。柔道では男子60キロ級のロンドンの銅メダリスト、キタダイ・エイジ・フェリペ、男子66キロ級では知花コウシロウ・チャールズが出場していました。みんな日本語がほとんど話せない3世、4世の選手ですが、出身は全員サンパウロです。

 

 ブラジルには160万人ぐらいの日系人がいると言われます。そのうち60万人ぐらいはサンパウロ市に住んでいるそうです。リオデジャネイロではほとんど日系人を見かけませんが、サンパウロでは市内のどこでも東洋の顔を見かけます。サンパウロに日系人が多いのは、日本からの移民船が到着したのがサンパウロの外港であるサントス港だったことが大きな理由のようです。

 

笠戸丸2

 ブラジル移民は1908年(明治41年)に始まりました。最初の移民は、笠戸丸という船で日本から2か月かかってサントス港に到着した700人ほどで、その半数ほどは沖縄県民だったと言います。笠戸丸は6千トンほどの外航船ですが、この船自体も大変数奇な運命をたどりました。イギリスで建造されたこの船はロシアの船会社の貨客船として運行していましたが、日露戦争の時にたまたま旅順港にいて日本海軍に捕獲されました。

その後、笠戸丸と命名されてブラジルやハワイへの移民を運ぶ貨客船として使われてから水産会社に売られ、第二次大戦終結の時に今度はソ連軍に捕獲されカムチャッカ沖で爆沈させられたのです。

 

 ブラジルでは19世紀末までアフリカからの奴隷を使ってコーヒー栽培などをしていましたが、奴隷制への批判が高まり制度を廃止したため今度は労働力が足りなくなりました。奴隷制の廃止はアメリカより20年ほど遅かったのです。そして日本人移民は奴隷労働の穴を埋めるために使われたわけで、当初は大変過酷な環境だったと言います。

 

 日本人街として知られるリベルダージには立派な日本文化会館があり、その7階から9階までが日本移民資料館になっています。戦前の移民の家が再現されオリジナルの生活用具が置いてあります。当時の日本のパスポートなど文書の資料やラジオから手製の剣道の防具まで実際に使われていた品が展示されています。ブラジルには戦後も多くの人が移民しました。戦後の移民は大戦で壊滅した沖縄からの移住者が多く、次いで1960年代になって次々に閉鎖された北海道や九州の炭鉱で働いていた人たちが移り住んだのだそうです。

 

 第二次大戦でブラジルは連合国側に立って参戦したものの、アメリカのように日系人が収容所に入れられることはなかったと言います。確かに生活は本当に厳しいものだったでしょうが、同じ時期に当時の「満洲国」へ移民しその後ソビエトの参戦で多くが離散し亡くなった人たちと比べれば、ブラジルへの移民はまだ幸いだったと言えるでしょう。

(つづく) 

 


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