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私の西安日記(1) 焚書坑儒

JUGEMテーマ:中国ニュース

 夏休みに北京へ帰省しました。北京にいると母に小言を言われ続けるので、途中ちょっと避難の意味もあり西安へ旅行しました。西安は初めてです。西安市一帯は秦の咸陽、唐の長安など何度も都の置かれたところなので、さまざまな時代の遺跡が重層的に散らばっています。
 
 秦始皇帝驪山陵の兵馬俑はもっともよく知られた遺跡です。8月は夏休みで子供連れの人たちが車で訪れるので、西安市の北東に当たる驪山方面へ行く高速道路が動きが取れないほど渋滞します。一人っ子政策のせいで、子供のためなら親は無暗に頑張って夏休みにあちこちへ連れて行くと聞きました。私ももちろん兵馬俑は見たかったのですが、3車線がすべてびっしりと兵馬ならぬ車で埋め尽くされた高速道路を眺めて恐れをなし、人のあまり行かない遺跡を訪ねることにしました。
 
 今日ご紹介するのは、秦始皇帝が儒者を穴埋めにしたという坑儒の場所です。この場所も驪山陵と同じく西安市の北東にありますが、驪山よりは西安寄りなので旧道を通っていけます。臨潼県洪慶堡(今は市町村合併で西安市臨潼区洪慶堡という表示に変わっている)という村で、始皇帝の宮殿だった咸陽宮からは40キロぐらい離れています。
坑儒1 人が少ないのはいいけれど、車を運転してくれた生粋の西安っ子の友達ですら場所も知らないという田舎で、車が漸く1台通れるかどうかの農道を走りました。しかも最後は道路が途切れています。仕方なく近くの農家に頼んで家の中を通らせてもらって庭へ出て到着という、観光とは全く縁のない所でした。新しいパンプスを履いていたのに前日の雨のため踝まで畑の泥に突っ込んでしまい、泣きの涙で歩きました。自家用のネギ、山椒、へちま、胡桃、柿、綿などが植わった農家の畑の泥濘の中を百メートルぐらい歩くと「秦坑儒谷」と書かれた石碑が一つ立っていました。裏側に碑の由来があり、1994年に臨潼県によって建立されたものだとわかりました。
 
 もともとこの辺りは坑儒の言い伝えによって「洪坑村」と呼ばれていたそうです。今でも時おり鬼(幽霊)の泣き声がするなどと言われる場所なので、陝西方言で「坑」と同じqingの発音の「慶」と置き換えて「洪慶村」という縁起の良い名前に付け替えたのだそうです。
 
 泥だらけの靴のまま農家の2階に上がらせてもらって周辺を見ると、この辺りは少し高くなった土地に取り囲ま坑儒6れた小さな盆地のような地形です。2千年前には洪慶溝と言われた谷があり、そこへ400人ほどの儒者を落として生き埋めにしたそうです。始皇帝から900年あまり後の唐の玄宗時代になって、埋められた儒者たちを祭る祠がこの地に作られたといわれ、先ごろ唐代の祠の儒者像の一部がこの地から見つかったということでした。

この辺りは西安から兵馬俑見物に行く道筋にあたります。リッチな農家を指す万元戸などという言葉が使われだした1980年代の農村ブームのころ、ある外国人が坑儒記念碑を中心としたテーマパークを作って兵馬俑見物に行く観光客をここへも呼び込む計画を県に持ちかけました。付近の村の農家から、当時としては大金の合せて60万元を集め、それを「坑儒パーク」の元手にすると言いながら、結局はその金を持って姿をくらまし国外へ逃亡するという事件が起きたのだそうです。

 その苦い教訓のせいでしょうか、それ以後はこの村では再び観光地化を目指す住民もなく、今のように鄙びた農村であり続けているそうです。孔子の言う通り、「不義而富且貴、于我如浮雲」(不義にして富み且つ貴きは我に於いて浮雲の如し)と思ったのかも知れません。

 

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