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私の西安日記(4) 薄姫◆’姫はなぜ呂后に殺されなかったのか

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薄姫1 薄姫は実に不思議な人です。もともとは、魏の王族で項羽に西魏王に列せられた魏豹という人の側室だったのですが、項羽と劉邦の間で立場が定まらない魏豹が殺され劉邦に拾われたのです。そして劉邦の4番目の息子である恒を生みました。

 劉邦には男の子が8人います。長男は、劉邦がまだ沛県にいたころ地元の情婦である曹氏に産ませた肥、次男は正妻呂雉(後の呂皇后)の生んだ盈、三男が寵姫であった戚姫の生んだ如意、そして四男が薄姫の生んだ恒という順です。
 
 戚姫の子の如意や他の側室が生んだ劉邦の息子たちは多くは劉邦の死後、呂后の手で殺されました。しかし薄姫とその息子の恒に呂皇后は手を触れなかったのです。呂后の一人息子の盈(次男)が後の恵帝になるのですが、劉邦の生前、側室の戚姫は自分の子の如意(三男)を皇太子にしようと猛烈な運動をします。また紀元前205年の彭城の戦いの時に呂雉は項羽の捕虜になってしまい、2年後に一時的に和議が結ばれるまでの間は劉邦のもとに居なかったのです。その2年余りの間に劉邦の傍に居たのは戚姫や薄姫でした。
 
 紀元前195年、劉邦が亡くなると呂后は戚姫への報復を始めます。まず戚姫の子の三男如意を領国である趙から都へ呼び出し隙を見て毒殺しました。それから戚姫を捉えて髪を剃って囚人部屋で米を搗かせ、最後には目をえぐり耳を焼き両手両足を切り落としてトイレに投げ込むという壮絶なヤキをいれたのです。
 
 一方、長男である肥の母、曹氏はおそらく故郷の沛県へ帰っていたのでしょう。呂皇后が曹氏に報復したという話は史書には出てきません。その代り斉王となった肥自身が上京して、恵帝となった弟の盈と酒を飲んだ時に、兄として上座に座ったという理由で呂雉は肥を毒殺しようとしました。性格の優しい盈が兄に渡された毒酒の盃に気づいて取り上げ兄を救ったことが史記(呂太后本紀)に見えます。
 
 劉邦のその他の息子たちも呂后の最晩年の紀元前181年から翌年にかけて、その手にかかって命を落としています。六男の劉恢は呂后から送り込まれた妃によって愛妾が毒殺されたのを悼んで自らも服毒自殺、その半年後七男の劉友は呂后によって幽閉され餓死、その僅か3か月後八男の劉建が燕王として亡くなるとその子は呂后によってただちに殺され家が断絶しています。
 
 五男の劉長は天寿を全うしましたが、それは母親の趙氏が劉長を出産するとすぐに呂后によって自殺させられ、劉邦がそれを憐れんで、劉長を自分の子供として育てろと呂后に命じたからでした。この中で薄姫はどうやって難を逃れ、その子の恒も殺されなかったのでしょう。呂后から危害を加えられなかったのは何故なのでしょうか。
 
 薄姫が難を逃れたのは、代王になった恒につき従って都から遠い代国に行ったからだという説をよく聞きます。代は現在の北京の西側、当時としては匈奴の領土と接する遥か北方の辺境にありました。首都長安からは直線距離で820キロと、たしかにかなり離れています。だから薄姫は呂后の迫害を免れたのだというのです。
 
 しかし自殺した劉恢が封じられた梁は長安から620キロとやはり遠いし、餓死した劉友も560キロ離れた趙の邯鄲にいたのです。代国がとりわけ遠いとは言えません。劉恢や劉友の運命から考えてみると、長安からの距離の遠近は、呂后からの身の安全を何ら保障するものではないことがわかります。ですから薄姫と恒が無事だったことには何か別の理由がなければなりません。
 
 その理由として、薄姫がその名の通り、影の薄い地味な人だったから呂后の魔手を逃れたのだと解釈する人は多くいます。作家の陳舜臣さんは次のように書いています。
 
 「薄氏はただの一度寵愛されただけで身ごもり、恒を生んだのである。そのあとも、彼女はめったに高祖(劉邦)に会わなかった。こんな影のうすい女であったから、薄氏は呂太后の魔手をのがれることができた。」
 
 しかし、薄姫は実は物静かでおとなしいだけの人ではなかったのです。その証拠が同じ史記の絳侯周勃世家にあります。後に息子の恒が文帝となったあと、劉邦が沛県で挙兵して以来の臣である周勃が謀反の疑いをかけられ投獄されたことがありました。薄姫は(その頃は薄太后ですが)文帝が訪ねてきた時に冒絮(被り物)を投げつけて激しく叱っています。「絳侯綰皇帝璽,將兵於北軍,不以此時反,今居一小縣,顧欲反邪!」 
 
 絳侯(周勃)は(呂氏を誅滅してからあなたが即位するまで、漢の総兵力の半分である)北軍を率いる将軍として皇帝の玉璽を守ったのです。その時に謀反を起こさず、小さな県に引退した今頃になって謀反を起こすとでも思うのか、と怒鳴ったのです。
 
 自分が正しいと思うことを、息子とはいえ皇帝に対してこれほど激しく主張できる人が、若い頃におとなしく影の薄い人と思われていたのなら、それは呂后から身を守るための薄姫の演技だったのではないでしょうか。
(つづく)


 


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