<< 私の西安日記(4) 薄姫◆’姫はなぜ呂后に殺されなかったのか | main | 9月29日のつぶやき >>

私の西安日記(5) 薄姫(3) 「女子高生的スクール・カースト」から薄姫を見る

JUGEMテーマ:中国ニュース


 若い女の子は群れて仲良しグループを作ります。これは中国でも日本でも同じです。女子の天性とも言うべきグループ作りと上下関係という視点から漢の後宮を見てみましょう。

 女子高生の間では必ず仲良しグループがあるほか、個々の子にはスクール・カースト(学校のクラス内の暗黙の身分の上下)があります。私も中学や高校で覚えがありますが、これは漢の後宮でも同じことだったでしょう。薄姫もグループを作っていました。管夫人と趙子児という二人と仲良しだったと史記に書いてあります。これはおそらく魏豹の側室だった時代のことで、魏豹が劉邦に捉えられると3人とも劉邦の後宮に入れられたのでしょう。しかし、漢書には薄姫は機織り部屋に入れられたとあります。同じ年に劉邦は彭城の戦いで敗れ呂后は項羽の人質になりますが、劉邦の後宮に入ったばかりの薄姫は我が身を守るために目立たないよう、後宮に居ながらわざと機織りなどの雑用をこなすことにしたのかも知れません。

 

女子高生
 

 学校での「カースト」の上下にはある程度法則があります。上のカーストに属する子は自己主張ができて目立つ子やおしゃれで綺麗な子、恋愛経験の豊富な子、運動部系の子、金持ちの子、そして声の大きい子などです。逆に下のカーストには自己主張しない子、地味な子、物静かな子、文化部系の子、ゲーマーとかオタク系、陰キャラな子、貧乏な家の子などが入ります。グループのリーダーになるのは必ず上のカーストの子です。勉強の出来不出来はそれほど関係ないと思います。

 

 それが面倒なら群れに入らずに中立の一匹狼でいればいいと男性は気楽に言いますが、そうではありません。中立・独立でグループに属さないのはさらに難しいのです。いわゆる「いじめ」はカーストが少しだけ下の子が対象になります。いじめやすいのは中の下ぐらいのカーストにいる子で、グループに属さず助けてくれる者もいないおとなしい子です。グループに属していない子が真っ先にターゲットになることが多いのです。

 

 高校生ぐらいだと、いじめと言っても、昼食の時に声を掛けないとかその子がまるで居ないかのようにハブる(村ハチブにする)、変な噂を意図的に流す、他の群れからもいじめられるように仕組むなどいう程度のことです。しかしこれが宮中の女性の派閥で、リーダーが自分の息子を皇太子に据えようと互いにしのぎを削っていたら、グループの対立はどんなに熾烈かつ残酷になるでしょうか。まして宮廷では女子だけではなく、宦官も女子グループに加わって陰謀をめぐらしているのです。その中で傷つかずに生き残る(文字どおり命を長らえる)ことがどれだけ大変なことか、現代ではわかりにくいことだと思います。

 

 呂后に対抗する最大のグループのリーダーは戚姫でした。戚姫はいわば「派手め」で「ギャル系」で「イケてる」リーダーだったのです。色気と才気で劉邦に取り入りいったようです。

 

 呂后は違います。劉邦にとっては煙たい古女房であり、大して美人でも「イケてる」わけでもありません。戚姫が来た頃には、呂后は当時としては大年増と言ってもよい30台半ばのオバハンだったのです。たぶん声の大きさとグループ構成員への面倒見の良さ、それに正妻という大義名分でリーダーの地位を保ってきたのでしょう。「女子校生理論」から見れば、呂后は劉邦の死を機に自分のグループだけを残し、後宮に他にいくつもあったグループのリーダーやその側近たちを完全に叩き潰したのです。

 前回書きましたが、戚姫に対してはヤキを入れるなんて生易しいものではなく、目をえぐり耳を焼いてから両手両足を順番に切り落とし、最後はトイレに投げ込んだのです。これは宮廷内に自分以外のグループは存在させないという呂后の強い意思の表明です。史記には記述がありませんが、戚姫と同じころに呂后の手にかかって命を落とした劉邦の元側室や女官、つまり他のグループのリーダーやメンバーはたくさんいたはずです。

 

 そんなすさまじい嵐の中で薄姫が無事だったのは何故でしょう。史記や漢書には、子を産んでからは劉邦から愛される機会が少なかったから宮殿を出ることを許されたとありますが、本当は薄姫がそのような下のカーストの特徴を意図的に装っていたからではないでしょうか。恒が生まれてからは確かに劉邦が薄姫のもとを訪れるのは稀だったようですが、これも皇子さえいれば呂后の恨みを買ってまで劉邦に来てもらう必要などないという薄姫の合理的な考え方に基づいていると思います。そのために薄姫は女子高生カーストで言うと、自己主張しない、地味、物静か、文化部系、ゲーマーとかオタク系、家が貧乏という属性を装ったのではないかと思います。

 

 薄姫の実家は実際に貧乏で係累も少なかったのです。そして自己主張しない、物静か、地味を装って見せる聡明さを薄姫は持っていたのだと思います。先にも書いたように、薄暗い機織り部屋で本来はやらなくてもよい雑用をこなしていれば、陰キャラでネクラだと見られたに違いありません。つまり本当の自分を隠し、地味でオタクで変わり者を装って下のカーストに見せかけていたのです。薄姫は仲良しグループと言われていた管夫人と趙子児らを通じて、自分のそういう噂を流していたのかも知れません。

 

 薄姫が無事だった理由でもう一つ考えられるのは、呂后が2年間項羽の捕虜になっている間などに呂后に何らかの恩を売ったのではないかということです。前の夫、魏豹が捉えられ薄姫が劉邦のところへ来たのが紀元前205年、その同じ年に呂后は項羽の捕虜になりました。呂后が劉邦の下へ戻れたのは紀元前203年ですが、その年の末に薄姫は恒を生んでいます。つまり薄姫が劉邦に幸されたのは呂后の不在中だったということです。

 

 また紀元前203年には劉邦が項羽の放った矢で重傷を負っています。これは呂后が帰ってくる前のことです。3年前に制作された中国のテレビドラマ「楚漢伝奇」は日本ではBSフジやWOWOWで「項羽と劉邦」という題名で放送されました。これは高希希監督が手掛けたドラマで制作費に30億円以上かけたと評判になりましたが、このドラマは史実の考証が綿密なのと、それで不明な部分を上手なフィクションに仕立ててあるのが特徴です。

 呂雉

 「楚漢伝奇」では、矢で射られ意識不明に陥った劉邦の鏃を胸から無理にも抜くべきかどうかで重臣たちの意見が分かれます。この時は上に述べたように呂后は不在なので、重臣たちは戚姫のところへ行きますが、派手目リーダーの戚姫は後で責任を取らされないよう明確な回答をしません。丞相の蕭何は、臣下ではなく身内が決めるべきだという意見なので次に薄姫にお伺いを立てます。その時に薄姫は毅然として今すぐ鏃を抜くべきだと主張します。

 結局は医師が鏃を抜いたことで劉邦は快方へ向かうことになるのです。項羽から解放され戻ってきた呂后は重臣たちから薄姫の決断について聞き、薄姫を呼んで自分の味方としてグループに入るよう伝えます。これに対して薄姫は、鏃を抜く決断については奥方様の代わりを務めただけですと暗に恩を着せると同時に、自分はオタクで陰キャラで自分の身を守ることで精一杯だから誰の邪魔もできるわけがない、という意味のことを言って呂后グループに入ることは婉曲に断ります。

 写真は「楚漢伝奇」の秦嵐さん演じる呂后

 もちろんこれは「楚漢伝奇」の高希希監督や脚本家が創作したストーリーですが、さまざまな面から考えてみてとても説得力があります。つまり薄姫が、鏃に限らなくとも何らかのことで呂后不在中に呂后のためになることを実行して恩を売ったということがあったのではないでしょうか。また同時に、呂后に対しては自らのネクラで陰キャラぶりを充分にアピールしたことでしょう。

(つづく)


コメント
田中さん
コメントいただき有難うございました。
楚漢伝奇のイメージが強すぎたのか、周勃の墓の近くを通った時に、「なにしろあの人は無骨な顔しているもの…」なんて思ってしまいました。
あのエンディングはあまり好きでないのです。音楽はいいのですが、私はどうも虞姫を好きになれないから、彼女のお琴の映像で始まるあのエンディングは苦手です。
  • 趙秋瑾
  • 2015/10/02 12:38 AM
とても、面白く拝見させていただいてます。
ドラマの「楚漢伝奇」は見ました。もちろんオリジナルで。エンディングテーマ(2曲位あったかな)が素晴らしかったので、ピアノアレンジまでしちゃいました。といっても私のは大したもんじゃないですが。
  • 田中進
  • 2015/09/29 7:51 PM
コメントする









この記事のトラックバックURL
トラックバック
calendar
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031   
<< May 2017 >>
selected entries
categories
archives
recent comment
recent trackback
  • 松沢神奈川県知事はいつから「お殿様」になったのか
    禁煙中 (04/12)
  • 海賊版は永遠に不滅です!? 〜現実の問題〜 (5)
    文理両道 (12/16)
links
profile
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM