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私の西安日記(8) 咸陽宮(その2) 意外に小さい咸陽宮

JUGEMテーマ:中国ニュース

 秦では孝公、恵文王、昭王と名君が続き(前361年−前251年)、この100年余りの間に国力が急に伸びた。その理由の一つは孝公の時代に秦の西南に当たる広大な巴蜀(現在の四川省)を手に入れて農業生産力が飛躍的に伸びたためである。もう一つの理由は、この三代の君主がいずれも人の能力を見極めて使うのがうまかったためである。孝公は商鞅を重用した。商鞅は秦の法や制度を整備して繁栄の基礎を作った。もっとも、法の適用に厳しすぎたので、孝公が亡くなり子である恵文王が即位すると罪を問われ車裂きの刑に処せられたのだが。
恵文王の代になると王は稀代の策士、張儀を使い楚の名臣屈原と楚王を離間させるなど手練手管を使って各国を揺さぶり秦を覇者に押し上げた。その子の昭王は魏から逃げてきた范雎を宰相に据え、王族の政治力と軍事力を削ぎ王権を確固たるものにした。この三代の時代に起工し竣工し、後の秦帝国でも政治の中心となった宮殿が咸陽宮である。
 
土台 咸陽宮は孝公(在位:前361年−前338年)の代に建設が始まり昭王の時代に完成したと言われる。昭王の在位は前306年−前251年だから、宮殿全体の完成には半世紀以上を要したわけだ。咸陽宮は第一から第三まで三つの宮殿から成っていた。いずれも三階建てに見えるが、第1層は実は土を突き固めた土台であり、その上に第2層として実質的な1階部分が、その上にさらに土盛りした部分に実質的な2階部分が乗る構造になっていたらしい。宮殿の土台にあたる場所を最近切り開いで作った新しい道路の両側の法面には、突き固めた土がミルフィーユのように重なっているのがいまでも見て取れる。


 これが咸陽宮の復元見取咸陽宮断面図り図である。真ん中の溝を境に左が1号宮殿、右が2号宮殿である。1号宮殿(左半分)の土台のサイズは東西が60メートル、南北が45メートル、一層の土台の高さは6メートルだったという。土台の上に建つ宮殿の真ん中の最も高い部分の建物は、東西13.4メートル、南北12メートルというから意外に小さいものだ。いまの小学校の体育館は大体24メートルx34メートルが主流だから、その四分の一程度のサイズだったようだ。図の右下に縮尺があるので大体の見当がつくと思う。この見取り図から描いた想像図でもそれほどの大きさではない事がわかる。


想像図






 日本の平家物語には、なぜか咸陽宮という章がある。清盛による福原遷都の後の部分に唐突に挟まっているのだが、琵琶法師がこの辺りで遠い唐土の話を引き合いに出して知識をひけらかそうという目的で入れ込んだのだろう。平家物語の咸陽宮の章は史記の叙述の引用に近く、燕の太子丹が荊軻という刺客を送り込み秦王政(後の始皇帝)を殺そうとした部分の抜粋である。荊軻は始皇帝暗殺に失敗し太子丹もその国である燕も秦に滅ぼされた。この章の最後に一行だけ地の文があって、「されば今の頼朝もさこそはあらんずらめと式退申す人もあけるとかや」(だから今の頼朝も太子丹と同じことになるだろうとお世辞を言う人も
あったという)と書いてあるから、始皇帝を平清盛に、太子丹を頼朝に例えたのだろう。

 それはいいとしても、平家物語のこの部分に咸陽宮の大きさが以下のように記されている。
「咸陽宮は都の廻り一万八千三百八十里に積れり。」
「四方には鉄の築地を高さ四十丈に築き上げて殿の上にも同じう鉄の網をぞ張りたりける。」
「その中に阿房殿とて始皇の常は行幸成つて政道行はせ給ふ殿あり。東西へ九町南北へ五町、大床の下には五丈の幢を立てたれどもなほ及ばぬほどなり。」(平家物語巻第五「咸陽宮」)
 
 咸陽宮は都の廻り一万八千三百八十里に積れり、というのは咸陽宮だけではなく、咸陽の市街全体を言うのだろうが、それにしてもこれは大きすぎる。この頃の中国の1里は約450メートルではあるけれど、18380里もあったら9千キロ近いから地球を四分の一周してしまう!

 一方、平家の阿房宮のサイズも史記の記述の引用だろうが、しかし長さがだいぶ異なっている。史記(秦始皇本記)には、「先作前殿阿房,東西五百步,南北五十丈,上可以坐萬人,下可以建五丈旗。」まず阿房宮の前殿を作ったが、東西500歩〈この頃の1歩は1.35メートルなので、約675メートル〉、南北は50丈〈丈は1.8メートルで、約90メートル〉とある。平家の方は東西が900メートル、南北500メートルと相当に膨らんでいる。これらの長さはいずれも土台の土を突き固めたところの長さだろうが、それにしても咸陽宮の60x45メートルに対して、阿房宮は675x90メートルととてつもなく大きいことはわかる。

 最近、阿房宮の前殿址の発掘が行われたそうだが、まだ建設中の建物であり、焼けた痕跡はなかったという。史記には「項羽引兵西屠咸陽、燒秦宮室、火三月不滅」(項羽は兵を率いて咸陽を攻め秦の宮殿を焼いた。火は三か月も燃え続けた)とあり、従来は項羽が咸陽宮も阿房宮も焼き払ったと言われていたが、阿房宮は渭水の南側(咸陽宮や咸陽の町と反対側)にあり、かつ建設中だったので項羽も火を放つことはなかったのではないだろうか。三か月も燃え続けたのは咸陽宮や渭水の北側にたくさんあった秦帝国の宮殿だったのだろう。

(つづく)

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