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私の西安日記(9) 咸陽宮(その3) 咸陽宮と阿房宮

JUGEMテーマ:中国ニュース

 阿房宮については前回も触れたが、秦の宮殿の中で咸陽宮より広く名が知られている。平家物語にも「その中に阿房殿とて始皇の常は行幸成つて政道行はせ給ふ殿あり。」(平家物語巻第五「咸陽宮」)と書かれているし、青森県南部の特産である食用の菊の花は「阿房宮」と名付けられている。東北地方では大ぶりな花びらを野菜の一種として食べるのだそうだ。

ポワロ和訳 またアガサ・クリスティの未定稿として見つかったエルキュール・ポワロの物語は、早川書房の翻訳本では「エルキュール・ポワロとグリーンショアの阿房宮」という題名になっている。(原題はHercule Poirot and the Greenshore Folly」)Follyと言う言葉は研究社の英和辞典によると、「大金をかけたばかげた大建築(計画)」(研究社 新英和中辞典)という意味だが、日本では「阿房宮」がとてつもない規模の大建築の意味にうまく当てはまると思われているのだろう。しかし阿房宮は実在したのだろうか。

 
 史記(秦始皇本記)には、広大な阿房宮の中で先ず建設工事が行われた前殿の大きさについての記述だけしかない。
「先作前殿阿房,東西五百步,南北五十丈,上可以坐萬人,下可以建五丈旗。」
 
まず阿房の地に「前殿」を作ったが、東西500歩(この頃の1歩は1.35メートルなので、約675メートル)、南北は50丈(丈は1.8メートルで、約90メートル)であり、殿上には1万人が座ることができ、殿下に5丈(9メートル)の旗を立てることができたと言うのだ。

 これらは建物の土台の長さだろうが、それにしても咸陽宮の60x45メートルに対して、阿房宮は前殿だけで675x90メートルととてつもなく大きいことがわかる。最近の発掘では、その基台となる土盛りの部分は、東西1270メートル、南北426メートルとさらに大きいことがわかっている。

 
6日付の中国各紙によると、秦の始皇帝が造営した大宮殿「阿房宮」(中国陝西省西安市郊外)は、定説と異なって、楚の武将、項羽に焼き払われてはいないことが、中国社会科学院考古研究所と西安市文物保護考古研究所が共同で実施した発掘調査で明らかになった。約1年間にわたって、20万平方メートル以上を調べたが、大量の灰や焼けた土など火災があった痕跡は発見されなかったという。阿房宮は紀元前212年、始皇帝が渭河の南に建造を開始した大宮殿。秦代末期に項羽が侵入し、3か月炎上したといわれ、これまで度々歴史小説の題材になってきたが、項羽によって焼失した事実はなかったことになる。新華社電によると、今回の調査では、始皇帝在位中に完成したとされる阿房宮の前殿部分の基本構造や範囲など輪郭が初めて判明した。前殿の土台は東西1270メートル、南北426メートルで、総面積は54万1020平方メートル。専門家は「今回の重大発見は中国史上最大規模の建築群の1つ、阿房宮の謎を解く上で重要な資料を提供してくれた」と意義を強調している。2003/12/0714:26読売新聞
 
 地図 
 地図でみると阿房宮は咸陽宮とは渭水を隔てている。今の渭水の10キロほど南側に位置し現在の西安市西端にある。渭水にかかっていた秦時代の
橋の発掘調査によると、その頃は渭水が今より3キロから8キロほど南を流れていたことがわかっているが、それでも阿房宮は咸陽とは川の反対側にあった。司馬遷は前に引用した次の部分に以下のように書いてある。

「為復道,自阿房渡渭,属之咸陽。阿房宮未成;成,欲更択令名名之。作宮阿房,故天下謂之阿房宮。隱宮徒刑者七十餘萬人,乃分作阿房宮,或作驪山。」(史記:秦始皇本紀)

(阿房宮からは復道(廊下)で渭水を渡って咸陽まで行けた。阿房宮は完成しなかった。完成したら名を選んでつけようと思っていたのだが、阿房の地にあったために天下の人が阿房宮と呼ぶようになったのである。当時は宮刑や徒刑に処せられた者が70万人以上いたが、これを分けて阿房宮と驪山陵を作らせた。)

 阿房宮建設の開始は紀元前212年であり、その2年後の210年7月に始皇帝は亡くなった。始皇帝の死に伴い始皇帝の墓である驪山陵の完成がまず必要になり、70万の労働力はほぼすべてそちらへ動員された。(この驪山陵が兵馬俑で有名なところである)その翌年(209年)4月に二世皇帝(胡亥)は咸陽に戻り「先帝為咸陽朝廷小、故営阿房宮為室堂。未就会上崩,罷其作者復土驪山。驪山事大畢、今釈阿房宮弗就,則是章先帝挙事過也。先帝は咸陽宮が小さいとして阿房宮を造営した。しかし室堂を作り始めてまだ完成しないうちに崩ぜられたため驪山陵を作った。驪山陵が出来上がった今は阿房宮の造営を再開しないと先帝のやったことが過ちだったことになってしまう。史記:秦始皇本紀)と阿房宮建設を再開しようとした。

 しかしその年の7月にはもう陳勝・呉広の乱が始まった。二世皇帝が実際に建設を続ける余裕はほとんどなかっただろう。だからいくら合計で数十万人の作業員がいても、途中で驪山陵建設に人を取られ、結局は司馬遷が大きさを記した前殿ですら土台しか完成しなかったのではないだろうか。つまり阿房宮は前殿の土台以外には何も建設されなかったのではないだろうか。

 私がそう思う理由はいくつかある。まず史記の記述をどう読むかと言う点である。「先作前殿阿房,東西五百步,南北五十丈,上可以坐萬人,下可以建五丈旗。」というのを、従来は出来上がった前殿の大きさがこんなに大きかったのだと解釈してきたが、古代の中国語は極めて簡潔なので、「(建物ができたら)殿上は1万人が座れるぐらいの広さ、殿下には5丈の旗を立てられるぐらいのサイズになる計画だった」とこの文章を読んでもおかしくない。

 また「為復道,自阿房渡渭,属之咸陽。阿房宮未成」も、「阿房宮からは復道(廊下)で渭水を渡って咸陽まで行けるようにする計画だったのだが、阿房宮は結局完成しなかった」とも読める。

基台 二番目の理由は、上に挙げた建設の日程である。咸陽宮が100年近くもかかって造営されたのに阿房宮は建設開始から数年しか経っておらず、しかも驪山に作業員を取られてしまっているので、前殿ですら建物ができ上っていたとは考えにくい。また最近の発掘では、前殿の西、北、東の三方には周囲の壁が築かれているが南側には壁がなかったことがわかっている。建設資材を搬入するため南側の壁は宮殿の完成後に作ることにし、建設中は築かなかったのだろうと考古学者は言っている。つまり阿房宮前殿は建設中だったと理解できるのだ。

(写真は阿房宮の土台として突き固めた土)

 
 三番目の理由は、阿房宮の建物がある程度まででき上っていたとしたら、いくら渭水の南にあったところで、項羽が咸陽を焼き払った時にこの最大規模の宮殿に火を掛けなかったわけがないからである。先に挙げた記事にもある通り、発掘調査の結果では火事になった痕跡がないことはわかっている。

 四番目の理由は、秦二世皇帝即位から10年後の漢王朝成立間もない時に、劉邦の大番頭である蕭何が未央宮をごく短期間に造ったことだ。劉邦はそれまで焼けなかった秦の興楽宮を改装して長楽宮として使っていたのだが、韓王信を討つため遠征に行き長安に帰ってみると未央宮ができていたというのだ。未央宮は秦の章台宮の跡地に造られたが章台宮は項羽に焼かれている。その焼け跡にこんな短期間で宮殿を完成させるのは、近くに大量の建設資材がなければ不可能なことだ。阿房宮から未央宮までは直線で6キロと極めて近い。建設されなかった阿房宮には木材や石など宮殿建設に必要な資材が山積みだったのではないかと私は思う。

 これらの理由から、ポワロの翻訳にまで使われた「阿房宮」という「建物」は結局はこの世に実在することなく、その建設用資材は漢の未央宮を短期間に仕上げるために流用されたと考える方がはるかに自然に思える。

 しかし同時に、Folly=「大金をかけたばかげた大建築(計画)」と言われようが、そんな壮麗な世界一の大宮殿が実際には建物部分の建設にまで至らなかったとことは残念に思う。

 二千年の間、さまざまに引用されてきた阿房宮は世界遺産には登録されていない。阿房宮のみならず秦から唐まで千年以上も都が置かれた咸陽・長安でユネスコの世界遺産に登録されているのは秦始皇帝陵(驪山陵)と兵馬俑だけだ。群馬県の富岡製糸工場みたいなシロモノが世界遺産だというなら、阿房宮や咸陽宮に始まり玄奘三蔵が経典をしまった大雁塔、楊貴妃が湯あみした華清池、歴代の皇帝陵などが重層的に集まっている西安の遺跡はもっともっと世界遺産に登録されていいのではないだろうか。ユネスコが賄賂の金額によって世界遺産への登録を決めるという噂はまんざらウソではなさそうな気もする。

コメント
驪山陵はCGでかなり復元できますが、阿房宮はそもそも建物の計画すらわからないので、前に挙げた咸陽宮の形を元に想像したものだと思います。

宇宙からの衛星写真から次々と各地の古代の道路や建築跡が見つかっているというのは、以前から航空写真をもとにした考古学があったのです。航空考古学と言っていたと思いますが、いまは宇宙考古学の時代なのですね。

  • 趙秋瑾
  • 2015/11/23 1:14 AM
こんにちは。
最近 (うろ覚えですみません) 、NHKスペシャル「中国古代文明の謎」の再放送を見て、その壮大な建物群に感動を覚えたところだったのです。

http://www.d-laboweb.jp/event/report/121011.html

CG のモデリング
http://studiohiei.web.fc2.com

宇宙からの衛星写真から、次々と各地の古代の道路や建築跡が見つかっているようなので、ご参考まで。。

でも、最後の文章ユネスコのくだり、同感です。
ふふっ
  • 橘子的橘
  • 2015/11/19 9:43 PM
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